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反ラボの現在:ポスト二項対立の時代における反概念

最近の反ラボ

反ラボは今、動きを止め、忘れられ去られようとしている。Discordはついに私を含め誰も論文を提出しなかったし、いまだに誰にも発言権はない(図1)。

図1(4月29日、最初で最後のサーバー管理人の発言)

反ラボ再考

思えば反ラボは生まれた時から死を予見された存在だった。反(アンチ)という構造はその存在から闘争的であるとジャック・デリダは言っているが、ボリス・グロイスは闘いは常にイデオロギーへの無限の期待でありながらそのパロディでもあると言う。これは何もアンチという概念が言語的必然性として反対者に依存していると言っているのではない。反ラボは最初から反ラボを寓意的に超越し、もっと大きな反概念として駆動していたし、イデオロギーとしての無限的な期待の矛先において、CSラボに反対することは前提でしかなく、反ラボにはいかに反ラボに反していくかという不可能な命題に共同体と芸術的な解釈学を用いて立ち向かうという本質的なダイナミズムがたしかに存在していた(図2)。

図2

二項対立の死

しかし、反ラボの闘争は同時に虚しき反概念のパロディでもあったのだ。グロイスはこうも言っている。いかなるプロパガンダ芸術もパラドクス・オブジェクトに留まると。しかし、このグロイス的なパラドクスという語において、二項対立における闘争関係は否定されている。グロイスはパラドクス・オブジェクトを民主主義/資本主義の全てを平等に商品化する欲望への応答として見ていたからだ。パラドクス化した二項対立はもはや闘争的な関係を持ち得ず、イデオロギーの相殺による多元主義への堕落の一途を辿る。まとめると、現代において二項対立的な闘争関係は期待とパロディのパラドクスへと置き換えられ、パラドクスは民主主義/資本主義的な多元主義的平等主義と欲望の論理に帰結する。

反ラボの役割り

しかし、現在も反ラボは全くもって死んでなどいない。反ラボは当初からCSラボに反する存在などではないのだから、「反(概念に関する)ラボ(ラトリー(研究室))」としての本来的な仕事は「いかに既存の反概念に反する(反概念を更新する)ことができるか。」である。反ラボは一時期、極度に抽象化された他者性という問題によって停滞を余儀なくされていたのだが、ポスト二項対立の時代において他者性は存在し得ない。ポスト二項対立のいま、反ラボはようやく本来的な役割をまっとうする機会に再度直面したのだ。一度目は大学の反概念としてのCSラボにいかに反するかという問題として。そして二度目のいま、ポスト二項対立の中でいかに反するかという問題として、その役割をまっとうする機会に直面している。この追い風の最中では表面的な実態(Discordが動いてないとかnoteが更新されないとか)は反ラボの死ではなく、批評可能な活動実態として立ち現れる。今回はそれらの活動実態をパラドキシカルに概観し、ポスト二項対立の時代における反概念のイコンとしての反ラボを多元主義的平等主義的な欲望に基づいて記述する。

反ラボと四季協会

四季協会というのはルイ・オーギュスト・ブランキによって設立された社会運動団体で、この前行ってきた第23期外山合宿で知ったのだが、外山さんによると四季協会の特徴はその徹底した制度設計にあり、会員は最初に会員番号と武器を用意して時を待てという手紙を受け取ったらその後は革命の時まで音沙汰なしだったらしい。

サンーシモン主義者やフーリエ主義者等社会主義者と呼ばれる人々が、この時期の政治運動や労働運動との現実的接点を欠いていたのに対して、共和主義運動の中に身を投じ、自らの行動と経験の中から理念を築き上げる革命家ブランキにあっては,誰が運動を担うのかという問題は突きつけられた現実的課題だった。王政初期の共和派は、雑多な分子の集合であったにせよ、1831年のリヨン蜂起以降急進化する労働運動と連帯し、王政に対抗しうる唯一の革新勢力だった。 そして、「労働者的かつ共和主義的フランスが十九世紀の歴史においてごくまれな友愛の瞬間のひとつを経験した。」と言われる1833年の労働運動と共和主義運動の紐帯を、1834年の「結社禁止法」、35年の「九月法」と相次ぐ弾圧政策下で、地下活動、秘密結社という形態で継承していったのが、他ならぬブランキの「四季協会(Société des Saisons)」であった。「四季協会」は、一般に、1839年5月の叛乱によってブランキの粗野な一揆主義を象徴するものとして語られているが、その会員構成に着目し、10の 「季節」が職種別に編成されていること、また、仕立工、製靴工、大工等当時の労働運動を担うパリの熟練労働者層が中核となっていることを見れば、「四季協会」が弾圧政策下における共和主義運動の労働運動包摂のひとつのあり方であったと考えることができる。

草高木光一「オーギュスト・ブランキにおける革命の主体」

外山さん自身の思想としての「やつらはビビる」に結びつけて考えると、四季協会自体が政府にたいして少なくとも365人以上の会員が在籍する労働運動が存在するという革命的、闘争的なメッセージになっており、それはレヴィナス的な責任論に繋がる。

レヴィナスとデリダ:2つの責任

エマニュエル・レヴィナスは他人との関係における応答責任について述べる上で、存在そのものがもつメッセージ「汝殺すなかれ」について言及しているが、ブランキはまさにこの存在そのものの闘争的関係性に着目し、四季協会をあえて革命の時まで放置したのだろう。また、反ラボと四季協会には偽名による管理という共通点がある。デリダはイサク奉献とセーレン・キルケゴールの「沈黙のヨハンネス」という偽名について語る上で、置き換え不可能なものの置き換えこそが生け贄を聖なるものに成すことができ、他者に責任を伝達しない秘匿性が絶対的な他への責任をまっとうすることを可能にすると述べている。つまり、偽名の秘匿性が絶対的な他者への責任に基づいた決断を可能にするというのだ。また、デリダはここでレヴィナス的な他人への応答可能性としての責任論を脱構築しているわけだが、反ラボの活動(つまりは放置)はポスト二項対立の時代においてなおも有効であり、デリダ/キルケゴール的な絶対的に他なるものへの責任とは相容れることができない。というのはここでの二項対立というのが中立的な記述(A or B)ではなく、差異による闘争(A vs B)を前提としているからなのだが、レヴィナス的な責任においても他人と主体という二項対立が存在すると言われるかもしれない。しかし、レヴィナスにおいて責任に対する正義は他人との関係を通じて状況ごとにその状況への正当な関わりを希求するものであり、デリダ的な絶対的な他者への無限の応答という一つの流れを持っているわけではない。レヴィナスにおいて状況A.B.Cに通底する正義は存在せず、その状況にたいしてそれぞれの正義が想定されていることから、デリダに比べ根底に存在するイデオロギーは平等主義的な多元論に近いといえる。反ラボにおける偽名の秘匿性はデリダ的なものではなく、レヴィナス的な、個々のメンバーにたいして、それぞれとの関係のなかで相対的に正義をまっとうするための匿名可能性として機能する。

(ねこで集中力の回復を謀る)

アート・ドキュメンテーションと反ラボ

反ラボは主軸をインターネットに置いている。Discordのサーバーだけが反ラボの存在を立証している現在、反ラボがいかにインターネットと癒着していたかが目に見えたものとして現象している。グロイスはインターネットを情報が流れ行く場ではなく、むしろ流れを反転させる場だと定義した上で、デジタルによるメタデータは物なしでアウラを創造すると言う。つまり、物は全て壊れ行くにも関わらず、美術館の制度によって芸術作品は特権的に保護されてきたが、インターネットにおいては(ハードが消滅しない限り)すべてのデータは平等に復旧可能であり、それは民主主義的な平等の論理に基づいて(可能性は平等)、イベントやパフォーマンスを写真や映像として、その一回性と感情を記録する。さらに、グロイスは人工物の製作過程をドキュメンテーションすることで物語を与れば、生-芸術(バイオアート)を創造することができると言う。アーティストはインターネットで復旧可能性の網目から抜け落ちたデジタルデータに物質性を付与し、製作過程をドキュメンテーションすることで人工物に物語を付与することで生きた芸術を対象化する。しかし、グロイスはここでアーティストの役割りをマーケットとは別のところに、つまり、欲望の論理の外側に見出だそうしているが、ポスト二項対立の現代において、そのような場は想定不可能である。ジョージ・シーブルックはノーブラウという言葉でマーケットを分析したが、ローブラウ、ミドルブラウ、ハイブラウという階級的なコードはもはや存在せず、流行としてのモードがあるだけだと言う。つまり、全てを商品化する現代のマーケットにおいては、芸術と非芸術という階級的なコードも存在し得ない。
反概念は反することなき記名の支持体であり、意味産出と忘却の鑑賞可能な鑑賞不可能性であり、随想録的な記憶/記憶的な随想録の支持体である。記憶を付され生きる者の世界において、反概念と反ラボは同じ地平において語られうるが、そのことによってさらなるメタデータは想像されうる。まさにその想像という力こそがポスト二項対立における反概念だ。Discordに参加すると同時に自らのアカウントを刻むことは、欲望/モードの流れすら反転するインターネットの中に交換不可能な自らを記述し、その存在の責任を取る(手に取るのではなく選び取る)偽り不可能な信用取引である。それは、物なしで創造されるパーフォーマンスであり、一回性のアウラ(アカウント登録)は交換不可能なもの(デリダ的な固有性ではなく、表象の同一性)の交換という奉献の聖性(意味)を帯びて、存在不可能な絶対的に他なるものへの責任が空転する。記名とは意味なき対象から対象なき意味への交換なのだが、私はいま書いているnoteのアカウントを登録したときの一回性、対象なき意味の場のことなど覚えていない。私はいま現在、反ラボというポスト二項対立における反概念に対して物語を付与しているわけだが、インターネットは物語という流れをも反転する。物語は欲望に基づいて記述されるが、欲望を反転する場に記述済みの非聖性アカウントは反転する物語の流れを希求しつつ否定する。ネットの欲望は流れないことで共在し、その欲望は許容量を超えて疲れをもたらす。インターネットは物語る欲望を喚起しつつその欲望の許容不可能な量によって否定する。アカウントはそれに伴って、欲望しつつ疲れによって不可能性に直面するため、ねこで集中力を回復するようにアカウントは物語を維持することができない。非体系的な事実の羅列は、過剰な欲望に引き裂かれながら随想録として対象に付与される。いま反ラボというアカウントは随想録的記憶(/記憶的随想録)を持ったキメラとして、生きている。
下記は、記憶的随想録たちである。

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