体の中に誰かいる
朝目覚めた時、エアコンの室外機から「何か」がごろごろと暴れる音がして冷や汗をかいた。
それは「何か」が得体のしれない「誰か」に感じたせいで、以前ベランダから侵入した「誰か」に夫の脳天をかち割られる夢を見てからこうなのだ。
長くなってしまった夫の髪を乾いた指で撫でつけながら、今見ていた夢を反芻する。
自由に動けていた頃、私の夢は比較的筋道がしゃんとしていた。同じ設定の夢が幾日か続き、まるで物語を読み進めてるかのような楽しさがあった。
動きを忘れてしまった私は夢の見方も忘れてしまったようで、無意味な暗い断片が寄り集まっただけの混沌がそこにあり、最近では眠るのが少し怖い。
今日の夢も、照明の落ちた図書館を幾人かの不満げな子どもと共に歩く夢、枯れた鉢植えに囲まれてうんざりする夢、固まった傷を掻き壊して濁った血が流れだす夢エトセトラエトセトラ。
悪夢を見た、と騒げるほど真に迫るものでなし、かすかに不快だと思う程度の夢なのがまたいやらしい。
夢が趣味だった名残でつい反芻したのは自分なのに不快感が上ってきて気分が悪くなった。
喉が渇いている。枕元にあったペットボトルをひっつかみ、胸元が濡れるのも構わず、一息にぬるい水を流し込んだ。
舌から正しい筋道を辿って水が流れ込んでいく。
「あ。」
途中で分岐し、私の筋道から外れた道を辿って水が流れるのを感じた。
最近、私の体を間借りしている「誰か」の方へ流れたのだ。
夢の話をつらつらとした女が、自分の体の中に「誰か」がいると主張したところでオカルトのように思うかもしれないけれど、本当にいる。
始まりは慎ましいもので、ほんの爪の先にも満たない存在だったので放っておいたが、半年居座った挙句、我が物顔で私の体の凡そを掌握していた。
特に栄養面に関わる感覚はすべて「誰か」の言いなりだ。
ここまで「誰か」と過ごして分かったが、彼は成長を目的として私の体を間借りしているらしく、それを叶えるだけの機能しか持たないようである。
言葉やテレパシーなどで要求を伝えることはなく、私の体の感覚を支配して、あくまでも私の意志で「誰か」の目的を達成させようとするのだ。
腹の中で「誰か」が動き出す。ほんの2週間前まで深夜から明け方にかけて度々起きていたのが、最近は午前8時前後に起きるのを日課にしている。
元々の起床時間に合わせてくれたのか、それともやはり「誰か」の都合でしかないのか、定かではない。
夫の手のひらが滑り込んで、私の腹ごと抱え込む。
それに呼応して「誰か」が私の内側をざらりと撫でた。実に不気味な動きだ、気分が悪い。にもかかわらず、夫は満足げな顔をした(しかし起きることはなかった)。
始まったばかりの彼はそれこそ私の付属品でしかなかったのに、「誰か」と認識出来るようになった頃から私と彼は個々に別れた。
彼は私を突き放したのに、未だ私の体を間借りしたままだ。「誰か」の目的は達成とは言えないのだろう。
一際大きな音がして、私はカーテンをすばやく引いてベランダを見た。
快晴と埃のかぶった室外機以外、何もいないように見える。しかし「何か」がいる、気がした。
私は後生大事に「誰か」を抱え、布団から出る。彼はまた私の内側を撫で、彼自身の体を私の体の空白を押し広げるように動かした。
つまるところ私は、彼に体を支配されることが嫌なのではなく、突き放されたことに対して拗ねている。
こんなに一緒にいたのに、急に個々人のような「誰か」に成り果てた。
彼の始まりから共に暮らしているせいで、自分自身を切り取られた気がしてしまっていたのだ。そもそも彼は私のものでも何でもなかったのに。
キッチンに立ち、昨日の洗い物が積みあがるシンクからグラスを抜き出して洗う。水しぶきが跳ね返り、乾いた諸々を癒していく。
外側だけ軽く拭い、冷えた水をなみなみ注ぐと、私はやはり一息にグラス半分を飲み干した。
舌から食道、胃に至るまでの正しい筋道を冷たい水が辿っていく。
そこから冷気が分岐して「誰か」に至る。さっきよりはっきりと別たれたのを感じ、視界が歪む。
この寂しさを解消する方法はないと私は気づいていた。すでに別れたものは二度と元には戻らない。
彼は私ではない「誰か」として腹の中で成長を続ける。彼の目的が何なのか分からないが、この別れも彼の目的達成のために必要な筋道なはずだ。
でなければ、間借りされている私の立場がない。この寂しさが無意味でないと彼に証明してもらわなければ、悔しいではないか。
急激な空腹にバナナを慌てて口に詰め込みながら、餅を焼く。彼は炭水化物とブドウ糖をご所望らしい。
私は機械的に朝食の準備をしながら、空腹が満たされた後の眠気を予感していた。
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