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弱者たらしめる生命の危機への意識について(つまり誰が強者なのか?)『ハンチバック』

やあ、僕だよ。久しぶり。みんな元気にしてた?
僕はというと色んなことが徐々に進んでいったおかげで忙しくしていて、けれどnoteを毎日書いていた頃がとても懐かしくて、愛おしくて、戻ってきたよ。

昔ながらのインターネットスラングで言うところの「リアル重視」ではあるけれど、この記事をちゃんと書き終えたらまたゆっくり更新していきたいと思ってる。
であれば、とりあえず始めないとね。

さあ、始めようか。
君が楽しんでくれると嬉しいよ。


『ハンチバック』感想、たまにあらすじ

『ハンチバック』市川沙央 Audibleで聴了
僕は先月Kindle Unlimitedを解約して、Audibleを契約した。高いだけあってKindle Unlimitedにはない新作なんかもあったりして、図書館予約を半年待つことなく今のベストセラーを楽しめる。しかも支配されるのは聴覚のみで、手も目も24時間支配され続けている母親業の身からすると満足度が高い。
だからか、普段は絶対手を出さない芥川賞受賞作も気軽に再生してしまった。

芥川賞受賞作に手を出さない理由は、高尚すぎる純文学(共感を拒絶することで価値があると自称する文学)はエンタメたり得ないと思っているからだ。僕はもしかしたら読書家かもしれないが文学者ではなく、共感のない作品を読むほど暇ではない。
どうせ読むなら平易でエンタメ性が強い、直木賞受賞作や本屋大賞を選ぶ。だってそっちの方がハズレなく面白いんだもん。

が、今回の『ハンチバック』の体験で、僕の浅はかさ、多様な視点、、、、、の欠けた思い込みから芥川賞受賞作を見てこなかったことを後悔した。
つまり、こんなめっちゃ面白い本が芥川賞受賞作なんて嘘だろ、と思った。(人は偏見をなかなか捨てられない。)
エンタメ的技巧や遊びがたくさん散りばめられていて、セオリーをぶち破る(市川先生にしか書けないリアルな描写がある時点ですでにセオリーとはかけ離れているが、それを抜きにしても)展開がいくつか見られたのがシナリオとしてよく効いている。

大手メディアの記事や書評はこぞって「読書のバリアフリー」をタイトルにしている(市川先生が一番伝えたかったことはそれらしい)けれど、幾重にも皮肉を込めたブラックユーモアが仕掛けられているのが素晴らしいと僕は感じた。

「生きづらさ」について主人公が「お前らの想像する生きづらさなんて私に比べたら」と断罪するシーンが序盤にあって、いや確かに「たん」が絡んで死にかける主人公の「生きづらさ」は想像を絶するものだが、断罪したそのネットのコメント投稿者だって想像を絶する「生きづらさ」を感じている可能性を切り捨てている。
また、主人公は身長155センチの「田中」が「弱者」と自称することに対して「弱者だと思ったことはない」と言い切るが、彼女の知らない世界、健常者で日本に暮らす僕らは「田中」の身長を知ったら彼の言動が腑に落ちてしまう(良きにつけ悪しきにつけ)。

今挙げたのはごく一部でしかない。総じて皮肉というか、傲慢さや他者に対する視点の欠け方や、視野の狭さを表現するのが抜群に上手く、そしてそれが軽やかで面白い。実にエンタメ的作品だった。
捉え方が少々奇妙な可能性もあるが、僕は大いに共感したし、最後のくだりはフラグ回収の美しさでくらくらした。もう一度記憶を消して、改めて目で読み直したい作品だった。

そこのけ、そこのけ、僕が通るぞ!

僕は午前3時に目が覚めた。夫はやはり風邪気味で弱音を吐いてばかりいたし、僕は4月からずっと続いている保育園病(子どもが風邪をひき続けることで確固たる預け先がなくなり、お金、手配する時間、頭のリソースが割かれること、あるいは保育園の理想通りに診てくれる病院がないこと)に悩まされ、もちろんやることも考えることも他にもたくさんあって、苦手や面倒ばかりが頭をぐるぐる回っていた。

やらねばならないことは苦手や面倒ばかりじゃないのに、しかしそれらが増殖する感覚がする。
多分、苦手や面倒を処理しようとして、途中でエラーを起こして、また一から処理を繰り返すからじゃないかしら、と僕は思っている。

それで、散歩に出た。産後太りはただの贅肉と成り果て、もう母乳もあげていないのでこのまま元に戻ることはないだろう。
散歩は良い運動になるし、何より深夜に行くというのが自由な感じがする。どの時間帯の散歩も散歩には違いないが、多くの人間が睡眠にがんじがらめになっているこの時間帯に行くのが良い。特権階級、、、、になったような心持ちがする。

平日の午前中に冷たい生ビールを中華料理屋で頼む時のあの感じ。どことなく優越感、、、、ありますよね?

「弱者」について、プラトン的な、ソクラテス的な、一般日本人女性的な(その他色々な)意味

僕の見立てによると、人間は傲慢で忘れっぽく、そのくせ思い込みが激しくむらっ気のある、ホルモンバランス乱れまくりの厄介な生き物だ。
社会が複雑であるがゆえか、生存競争が他の動物に比べて牧歌的(少なくとも公には、人間が主食の生き物はフィクションにしか存在しない)だからか、同種同士の奪い合いに終始している。

いや、同種同士の縄張り争いなんてさして珍しくもないか。であれば生き物自体の本質の一つとして、他者(自分以外)からの争奪はあるかもしれない。

しかし一方で人間は、他者を助けたい気持ちが乳幼児から存在する可能性を指摘した研究もあった(うろ覚えだが、Netflixの『赤ちゃんを科学する』に出てきたような)。それを裏付ける「弱者を助ける正義の味方」に肯定的な乳児についての研究もある。

1歳4ヶ月を迎えた息子氏も、全く興味を示さなかったアンパンマンを指さして「ぱんまん」やら「アーパーマー」と言うようになったので、少なからず好感はあるようだ。

では、その正義の味方ヒーローが助ける、「弱者」とは何か。ここでの意味は、空腹あるいは悪者に生命の危機を脅かされ、他者の手助けなくして自分では解決できない人たちのことを指すだろう。
実に狭義だと、僕は思う。というのも、僕は現代日本に住まうアラサー女性かつ、ネットスラング勃興期にどっぷりネットに浸かった世代なので、「弱者」と聞けば「情弱」とか「底辺」とかその辺りの単語が付いてくる。

そして確かに、ノリと劣等感が入り混じる文章で「弱者」と自称するユーザーもいた。自らの「底辺」スペックを晒し、不幸自慢かあるいはSOSか、真意は分からないことも多かった(大抵はそうだ)が、「弱者」はそこにいた。

では、彼らは生命の危機があっただろうか。ほとんどの場合、物理的な、、、、生命の危機はなかったように思う。かといって彼らが「弱者」ではないと言い切るのも違う気がする。

なぜか。もしかしたら生命の危機はあったかもしれないからだ。つまり、生命の危機の定義が、人間としての死という意味が、物理的でなくもっと広義だったとしたら?
彼らは確かに「弱者」だ。他者から尊厳を踏み躙られ(と自覚があり)、健康的で文化的な最低限度の生活が保障云々などと仰々しく明文化されている国に生まれたのに享受できていない。

とはいえ、「弱者」の意味が彼女的には拡大解釈され、「ハンチバックの怪物」が恨めしく思うのもまた、正しいように思う。彼女は客観的に見ても生命の危機に脅かされている「弱者」だ。
空腹や悪者や正義の味方がいない分、純度の高い「弱者」といえるかもしれない。そういえば、「正義の味方なんてフィクションにしかいない」みたいなセリフは擦り切れるほど聞いたことがあるが、実際フィクションのような純度100%の「悪者」もそういない。

立場には度合いがある、と考えると納得がいく。「弱者」や「正義の味方」や「悪者」にはそれらしさの度合いがあるのだ。
そして、その度合いは客観と主観が混ざり合っている。精神的な生命の危機であり、良心やモラルであり、ホストたんヒト免疫の仕組みたんである。

では、一体「強者」とは何者なのか?

「強者」を「弱者」の反語として扱うなら、客観と主観両面から生命の危機を免れている者たちだ。
「強者」もまた、「弱者」と同じく度合いがあるだろうか。現在生命の危機を免れている者が仮にいたとして、少しでも他者の力を借りず、生命の危機を脅かされずにこの世を生きる、なんてことは可能だろうか。

そもそも人は動物として不自然なくらい未熟に生まれてくる。すでに生まれてから1年経って久しいのに、少し目を離すとちぎったパンを喉に詰まらせようとする。
僕だってクーラーがなければ、クーラーの電気代や機械購入費を支払うための仕事がなければ死ぬ。

意識をしていないだけで、人間はいくらでも「弱者」になれる。裏を返せば、そこに意識が向かなければ「強者」たりうるともいえないだろうか。
普段の僕はクーラー代が払えないとは思っていない。その面で僕は「強者」だ。クーラー代が払えなくなって初めて「弱者」になる。

何が言いたいかというと、生命の危機は主観や客観問わずいくらでもあり、事実はどうあれ当人が生命の危機に意識が支配されると「弱者」、支配されなければ「強者」であるということなのだ。

ここで度合いが出てくるわけだけど、本来であれば生命の危機それ自体の度合いによって、その面での「弱者」か「強者」かの立場になる。が、生命の危機が主観的なものも加味するのであれば、それを生命の危機たらしめるのは危機を感じている当人である。
つまるところ、危機を感じなければ、意識が支配されなければ、「弱者」ではない。

風邪っぽい時に「ハウスダストか何かかな」と頑なに薬を飲まない、みたいな感じだ。

誰が何と言おうと僕は自由である

とここまで考えて、「強者」は「弱者」の反語という部分が間違えている可能性に気づいた。まあでも生命の危機を意識しない者は「弱者」ではないよね、ということでよしとする。

ラストで「ハンチバックの怪物」の末路(という解釈を僕はしている。みんなはどう?)をAudibleで聴き終わり、元の文章の音の気持ちよさ、プロのナレーションの凄さ、まもなく明けようしている今日を茶畑の向こうに見て、僕は最高に気分が良かった。
まだまだいくらでも歩けそうな気がするが、夫から通知で水を差されているので帰ることにする。

そう。僕は帰ることにしたが、気分の良さは変わらなかった。僕の主観では、まぎれもなく僕は「強者」だった。
なぜか。僕は自ら選択したからだ。いつもなら子ども最優先で選択の余地はない(そもそも散歩に出るなんてあり得ない)。でも僕の中には「帰らない」という選択肢もあった。結局選択はしなかったが、選択肢があるということが僕を「強者」たらしめた。

かといって、不自由な日常もそれなりに楽しく、生命の危機に意識が支配されることもなく、むしろ息子氏がいない時の方がよっぽど生命の危機に瀕していたし、自身を「強者」たらしめた感覚は10代の終わり頃に遊び回っていたどこかの瞬間や、自分の仕事に満足がいったごくわずかな瞬間だけだった。

そうか。この感覚自体を知覚できる能力そのものが「強者」の条件かもしれない。どこまでも無敵で、自由で、自ら選択できる、意識下に生命の危機がない、そんな状態。
なるほど、「ハンチバックの怪物」も「田中」も「サヤカちゃん」も「強者」にはなれない。そうでなくても「強者」でい続けるのは、難しい。

僕は玄関を占領する大量の段ボールを見て、またぐるぐると考える。段ボールの回収はいつだったっけ、段ボールは虫の温床になるから必ず出さなきゃいけないけど、この量をどうやって出そう、分けて出したらその内虫が湧いてゴミ出しが億劫になるなぁ。

子育て政策で何とか、とかいう話があるが、ちょっとした風邪でもいつもの保育園が利用できて、ゴミ出しを仕分けせずともまとめるだけでいつでもできて、予防注射とか諸々の手続きをアプリでやってくれて、誰かが月に一回掃除か朝食を作ってくれれば、僕はもう一人産んでもいいと思っている。
自分以外の「弱者」は知らないけれど、結構な割合の親(20年後の経済成長に貢献しうる人、でも誰が20年後の経済成長に興味があるんだろう?)たちが「強者」の感覚を取り戻すのではないだろうか。

ま、こんなことで文句を言うのは僕だけかもしれないけどさ。

#社会復帰 #弱者 #強者 #ハンチバック #Audible #エッセイ

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僕はいつまでも飽き性ちゃん
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