スーパー戦隊シリーズパイロットの分析・批評実践(2)『鳥人戦隊ジェットマン』1・2話編〜「戦うトレンディドラマ」ではなく「脱・昭和」が目論みの戦隊〜
昨日は『電撃戦隊チェンジマン』の1・2話に関する分析・批評を実践してみたが、改めて映像と物語の双方において隙なく完成されたパイロットであった。
『秘密戦隊ゴレンジャー』から『超電子バイオマン』までの歴史の蓄積を踏まえつつ、「昭和ヒーローの粋」を徹底的に集約させた奇跡の傑作である。
「人間」はいかにして「ヒーロー」になるのか?を物語と映像の双方から示し、名前の通り「変化」するヒーローであり、それが結果的に戦隊の格を上げてみせた。
しかし、問題はここからであり、「チェンジマン」の成功体験はその後長きに渡ってシリーズを蝕む「毒」にまでなってしまったのである。
そんな折、まるで救いの神なのか破壊の悪魔なのか、よくわからないスタンスの基に『鳥人戦隊ジェットマン』なる「問題作」は現れた。
しかも厄介なことに本作が私が初めて「戦隊」という世界に引き摺り込まれるきっかけとなった作品でもあり、未だに私の感性を惑わせ続ける。
しかし、それよりも問題なのは本作に「戦うトレンディドラマ」などという、誰が言い出したかもわからない稚拙な評価が未だに蔓延している事実だ。
挙げ句の果てに「打ち切りの危機を救った救世主」なんて尾鰭がついた神格化もいいところな評価が大変に居心地悪く、その苛立ちが私を戦隊批評へ駆り立てている。
確かに「ジェットマン」がスーパー戦隊を含む東映特撮の歴史におけるコペルニクス的転回の傑作であるのは周知の事実だが、全ての人が本作を肯定的に見ていたわけではない。
「破壊」という行為は「痛み」を伴うものであり、その「痛み」「歪み」といった「都合の悪い部分」から目を背けた盲目的なゴマスリが「戦うトレンディドラマ」なんて評価を生み出す元凶である。
今回は本作のそうした露悪性に向き合いつつ、改めて立ち上がりの段階で何が画面に提示されているかを分析・批評してみよう。
「トレンディ」はあくまで枝葉、根幹にあるのは「脱・昭和」
最初に大前提として言っておきたいのは「トレンディ」はあくまで枝葉であり、本作の根幹に存在するのは「脱・昭和戦隊」だ。
そもそも「トレンディドラマ」とは1980年代後半〜1990年初頭に流行していた「都会を舞台とした男女の恋愛模様」を描いたドラマのことだが、代表例として『男女7人夏物語』『東京ラブストーリー』『101回目のプロポーズ』あたりが挙げられる。
特に『東京ラブストーリー』の「完治、セックスしよ!」や『101回目のプロポーズ』の「僕は死にましぇん!あなたが好きだから!」は未だに語り草になるが、今見直すとあまりにもアホらしすぎて見るに堪えない。
それらの作品と同時期に作られていた『鳥人戦隊ジェットマン』という傑作が重なるところがあるかというと、それはあくまで「表面上の枝葉」がそう見えるだけであって根幹の本質は全くトレンディドラマとは重なっていないのだ。
恋愛描写が取り沙汰されがちであるが、単に戦隊メンバーが恋愛するだけならば『ジャッカー電撃隊』『光戦隊マスクマン』という前例があるわけで、決して本作に固有のものというわけでもない。
しかし、紛れもなく本作は既存の昭和ヒーローに対し徹底した「反抗」「挑戦」の意を示したことは間違いなく、最低でもこの程度を前提として理解できなければ「ジェットマン」の真のファンではないだろう。
ただ、その物語を「戦隊」という既に形式も物語も出来上がっていたジャンルで表現する手法として、「トレンディっぽいもの」を取り入れるしかなかっただけである。
だから本作は本質的な部分では間違いなく「戦隊の王道」自体は外していないのだが、その「王道」を「逆張り」作家・井上敏樹を中心にした作り手がどう崩したか?が本作のパイロットを分析・批評する上でのポイントだ。
それは同時に「聖」なる存在とされていたヒーローの「邪」、すなわち人間としての「俗」なる「性」を剥き出しにすることでもあり、本作のドラマはその文脈において理解される必要がある。
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