映画狂人にして文学界の大御所3人が語る「醜悪」とは果たして何か?昭和以前と平成以降で明らかに違ったもの
一昨日の記事からもう少し補足して話を膨らませてみる。
歴代戦隊で和解が描かれたパターンとして『電撃戦隊チェンジマン』『激走戦隊カーレンジャー』『魔法戦隊マジレンジャー』が知られているが、それぞれに和解のパターンは違っている。
しかし、歴代戦隊の中で和解のパターンが比較的うまく成立したパターンはやはり『電撃戦隊チェンジマン』のみであり、後の2作は和解そのものがやはり幾分唐突に描かれた印象は否めない。
3パターンともそれぞれ星王バズー・暴走皇帝エグゾス・絶対神ン・マという強大なラスボスが登場し、そいつに物事の元凶を押し付けることで事なきを得たということになっているのだ。
しかし、その中で合理的に和解や呉越同舟が成立した「チェンジマン」が大きく違っていたのには理由があって、1つが「元凶が最初から顔を出していたかどうか」である。
「チェンジマン」の場合は最初からバズーが登場しており、正体は謎に包まれていたが悪のカリスマとして必ずと言っていいほどトップのところに存在していた。
そのバズーが強いた圧政をどう打ち崩していくのか?が「チェンジマン」の1つの見どころだったわけであり、後半に入ると段々とその全貌が顕になり、ゴズマはどんどん瓦解していく。
ゲーター一家の離反、リゲル星人ナナの参戦、そしてシーマが悪党からお姫様に転生する一方で、ブーバ・ギルーク・アハメスといった存在感の強い幹部は決して和解せず滅んだ。
「チェンジマン」の戦争の図式は第二次世界大戦〜冷戦・学生運動の価値観で描かれており、敵兵が裏切って味方につくという展開にすることで、「敵組織そのものと和解するのではない」としている。
これが「カーレンジャー」「マジレンジャー」との決定的な違いであり、平成に入ると「敵組織そのものとの和解」が描かれるようになり、その第一号がボーゾックとカーレンジャーだった。
しかし、ではなぜ「カー」「マジ」のようなパターンがそれぞれ一作限りとはいえ使えたのかというと、そのヒントがまさにアメリカ映画を語っている大御所3人の鼎談にある。
こちらの記事だ。
蓮實重彦・青山真治・阿部和重が2015年にアメリカ映画の「Hero(英雄)」「Savage(野蛮人)」「醜悪」という言葉を用いて現代社会とアメリカ映画の皮肉さを斬っていた。
アメリカ映画には「異民族のことをSavage(野蛮人)と呼んではいけない」というポリコレ的でもある倫理が存在していたが、それが大きく崩れたのがクリント・イーストウッドの『アメリカンスナイパー』だという。
私も件の映画を見たことがあるが、これはある種イーストウッドが自身の俳優としての全盛期に出た西部劇の自己批評であると同時に、ある意味ではアメリカ映画そのものを自ら皮肉って見せたと言える一作だと思えた。
とはいえ、これは誰しもができる芸当ではなくイーストウッドという古典的ハリウッドと呼ばれた時代から映画というものを自分でも作り、また批評もある種やってきた人だから成立する視点の話だろう。
青山真治はこの映画で「Hero(英雄)」「Savage(野蛮人)」という言葉の定義・意味合いが逆転してしまったのではと語り、その後で平成以降の世界に横たわっている「醜悪」についても語っていた。
この3人が語っている「醜悪」という言葉の正確な意味はこの3人にしかわからないだろうが、私には何となくであれ平成以降に顕在化し世界を覆った「醜悪」というものが何となくであれわかった気がする。
それを最初に体験・体感したのがまさに私にとっては『鳥人戦隊ジェットマン』であり、そしてまた95年に発生したオウム真理教事件は社会現象として日本が「醜悪」にまとわりつき、あの歴史的テロを境に日本の犯罪はより陰湿化・複雑化した。
なぜなのかを考えてもよくわからないが、1つ言えるのは昭和時代にあった善悪・正義の図式が冷戦終結とベルリンの壁の崩壊と共に全て崩れ落ちてしまい、また日本経済もバブル崩壊したことでそれまでの高度経済成長が全否定されたのである。
社会的基盤が大きく崩れた後に何が残るのかというと、混沌(カオス)であり、その奥をさらに突き詰めていくと結局のところは我欲(エゴ)でしかなくなり、そしてそれは善悪以前に人間が根本的に持っているものではないか?
『鳥人戦隊ジェットマン』がある意味で「戦うトレンディドラマ」と評される理由も突き詰めるとある種蓮實が語るところの「醜悪」にある気がして、あの作品ではヒーローたるジェットマンも悪の組織たるバイラムも根底に「醜悪」がまとわりついていた。
これは決して井上敏樹自身がそういう露悪的なものを好む人だからというだけではなく、ちょうど同年に発生した湾岸戦争自体が現象として持っていた「醜悪」と根っこの部分で繋がるものがあったからではなかろうか。
ちなみにあの作品では、レッドホーク・天堂竜がバイラムを憎み仲間たちに正義のヒーロー足らんと呼びかけるわけだが、実はその竜こそが一番心に「醜悪」を抱えた存在であり、ある意味偽悪的な醜さを自覚的に出している結城凱よりタチが悪い。
竜自身もそれには気づいているのだが、必死に否定しようとすればするほど彼は「醜さ」へと近づいていき、終盤では唯一の心の拠り所であった葵リエを失ったことで復讐鬼=醜悪そのものへと変質してしまう恐ろしい展開が待ち受けている。
何と皮肉な話であろうか、『地球戦隊ファイブマン』までは踏み越えることのなかった「善悪」以前の倫理とも呼ぶべき一線を天堂竜は最後に復讐鬼になってしまうという展開をあの当時にして既に描いてしまっていた。
これが何を意味するかというと1つは先ほど述べた「醜悪」がついにヒーローフィクションの「善悪」の理屈を超えてしまったことであり、そしてもう1つが「カリスマの凋落」である。
そんな竜が最終的に香という、これまた竜や凱とは別の意味で女の醜さを抱えた鹿鳴館香と結婚し子供まで設けているのだから、ある意味でいうと平成の30年とはそういう「醜悪の顕在化」が1つのテーマだったのかもしれない。
そう考えると、『激走戦隊カーレンジャー』で何の懲罰もなくかーレンジャーとボーゾックが和解してしまったこともある意味では納得が行く、というのもカーレンジャーもボーゾックも心に「醜悪」を抱えた存在だからである。
つまり、元々心にどこか歪さやだらしなさを抱えていた一般人ヒーローだからこそ、通常のヒーローものではあり得なかった敵組織との和解という展開が可能になったとすると、あの和解にもそれ相応に納得できるだろう。
かーレンジャーの5人もボーゾックのメンバーたちもこの戦いに関して主体的に決断ができるほどの思考力があるわけでもなければ、この戦いにそもそも正義だの善悪だのといったルールは存在していない。
ある意味では無法地帯での戦いだったからこそ、それこそ「メガレンジャー」以上にゲーム感覚の戦いだったからこそ、終盤で全ての元凶をエグゾスに押し付けてしまうという暴力的な解決手段が可能になった。
そして次作『電磁戦隊メガレンジャー』はITというものを1つの題材として、終盤では健太たちの正体が特定されてからの展開はまさに「民意の怖さ」と「醜悪」が一体化したような鬱屈とした展開が描かれる。
だから、健太たち5人の高校生はDr.ヒネラーのいう「ならば聞こう!お前たちは幸せか!」という反駁に対して黙るしかない、これはある意味でヒーローの敗北が露呈した瞬間でもあるだろう。
醜悪の塊である鮫島博士に対して久保田博士もメガレンジャーもそれに対抗できる理論・理屈を持ち得ないからこそ、ああいう最終決戦にならざるを得なかったし、ある意味であれは起こるべくして起こったことだ。
じゃあそれはどうすれば解決できるのかというと、それが『星獣戦隊ギンガマン』だったわけであり、あの作品は平成以降に顕在化した「醜悪」を取り入れながらもそんな時代における「ヒーロー」を見事に再構築してみせた。
これは是非とも「ギンガマン」のレビューで触れようと思っていたので前倒しとして語ると、元々は『星獣戦隊バイオレンジャー』というタイトルで描かれる予定だったと聞く。
意味はおそらくViolence(暴力)であり、高寺Pをはじめ作り手は当初ものすごく荒々しい、それこそアメリカ映画では口にしてはいけないSavage(野蛮人)とでもいうべきヒーローを作ろうとしていたようだ。
その名残が星獣のあのカクカクとしたゴツいデザインや転生後のギンガマンの本能覚醒というべき荒々しい戦闘スタイル、あるいはヒカルの激し目の性格などに見て取れる。
そして敵も「醜悪」そのものを体現した宇宙海賊であり、だから実は「ギンガマン」という作品は歴代の中でも最も「荒々しい」「野蛮」とでもいうべき作品であり、そういう意味では昭和戦隊とは全く似ても似つかない。
宇宙海賊と対峙するヒーローがなぜ異世界にいる戦闘民族なのかというと、結局のところならず者をやっつけるにはそこら辺の一般市民の成り上がりや人間社会上がりの軍人では対応できないからである。
Savageに対しては同じSavageでしか対抗しようがない、だからギンガマンはHero(英雄)にしてLegend(伝説)であると同時に、ある意味ではアメリカ映画で言うところのSavage(野蛮人)なのだ。
ちょうどこの年『ONE PIECE』という海賊をヒーローとして描く作品がジャンプ漫画で現れたが、ある意味ではこの2作に共通しているのは「醜悪さを抱えつつもそれと向き合う」ことだったのかもしれない。
だから歴代の中で実は「ギンガマン」ほど個性がどぎつい作品もないのだが、映像の形式とそれに伴う意味内容の定義づけががっちりしている為に、人々の目にはあれが新時代の戦隊の王道に見えてしまうという恐ろしい作品だ。
つまり昭和的な善悪などでは決してないし、映像として出来上がったものは決して過去のどの戦隊にも似てないのに、まるで古典的デクパージュとして存在する昭和戦隊の王道につながっているように見える不思議さが面白くもあるし怖くもある。
昭和と平成を隔てるものとして「醜悪」が存在する、このことを知ることでイマイチ言語化しづらかった部分がどんどん氷解していくような気がする。