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『電子戦隊デンジマン』第2話『人喰いシャボン玉』

◾️第2話『人喰いシャボン玉』

(脚本:上原正三 演出:竹本弘一)


導入

曽我町子の強烈な存在感

「地球上から全ての美しいものを消し去れ!地球上をヘドロとガスの渦巻く腐った世界にするのじゃ!」

1話では大々的な侵攻のみが描かれたベーダー一族だが、改めてヘドリアン女王の口からベーダー一族の目的が語られる。
それは即ち「地球を腐った世界にする=自分たちに住みやすい星に変えること」であり、当時問題となっていた工業化に伴う環境汚染のメタファーとも取れる敵組織の元祖として描かれている。
このベーダーの目的は『炎神戦隊ゴーオンジャー』のガイアークや『魔進戦隊キラメイジャー』のヨドン軍にも継承されている目的だが、これ単体だけならそんなに大したものとは言えないだろう。
それを他ならぬ曽我町子の演技力と圧で言わせることによって説得力を増しており、彼女が中心に立つことによってベーダーのチームカラーが形成されているのが非常にわかりやすい。

これは同時に黒十字軍・クライム・エゴスといったこれまでの敵組織との大きな差別化ともなっており、首領が正体不明ではなく、自ら全面に出てわかりやすくヒエラルキーを示しているのが違うところだ。
彼女のキャラクター性は自身がその後演じた『恐竜戦隊ジュウレンジャー』の魔女バンドーラにも活かされているわけだが、敵幹部の女性キャラでここまでインパクトが強いのは後にも先にもヘドリアン女王のみだ。
ヘドリアン女王のモデルとしてグリム童話『白雪姫』の継母が挙げられるが(「鏡よ鏡」と聞いていたので)、そうなると見方によっては桃井あきらが白雪姫(毒に犯されて死にそうになる)とも見ることができる。
いずれにせよ、「魔女」としての色気を1話から放っていたヘドリアン女王が「デンジマン」の作風を支えてくれた屋台骨であることはいうまでもないであろう。

映像作品の大原則として「役者がそのキャラクターにきちんとなれているか?」は非常に大きな要素であり、それは演技の上手い下手以上に被写体が持ちうる素材としての魅力とそれを引き出すカメラの最適な距離感・ライティングなどで決まる。
だから他の幹部たちが微妙であっても、曽我町子さえいればベーダー一族の存在証明が簡単に出来てしまうのは1つの大きな飛び道具ではあるが、反面他のメンバーが没個性化してしまうというリスクもまた同時にあるのだ。
まあこの辺りに関しては後続作品が克服していくべき課題ではあるのだが、ひとまずはベーダー一味のカラーを改めて示し、それに立ち向かうデンジマンたちのドラマを別角度から描いたのが今回のお話である。

戦いを拒否する戦士というドラマ

デンジマンになることを拒否する桃井あきら

第1話のレビューでも触れたが、今回のドラマの眼目は後のシリーズのいくつかで描かれることになる「戦いを拒否する戦士」であり、それをデンジピンク・桃井あきらから描いたという意味で、この試みは初である。
シリーズで戦いを拒否する展開が描かれたのは『超電子バイオマン』の初代イエローフォー、『鳥人戦隊ジェットマン』のブラックコンドル、『電磁戦隊メガレンジャー』のメガブルーが挙げられるだろう。
現在同時配信中の『激走戦隊カーレンジャー』の場合は例外的に5人全員が戦いを拒否しているが、面白いのはいずれもが「一般人戦隊」という共通点を持っていることである。
要するに「素人が偶然に戦いに巻き込まれる」という設定のシリーズ作品においてのみこの展開が使えることを意味するが、これの大元にあるのが前年のロボットアニメ『機動戦士ガンダム』であることはいうまでもない。

「ガンダム」のアムロ・レイは当時のロボットアニメ主人公としては珍しい内向的なメカニックオタク、まあ今風に言うなら「陰キャ」と呼ばれる部類のネガティブな少年であった、クラスの端っこにいるようなタイプの子である。
天才科学者を父親に持っているという『マジンガーZ』の兜甲児から使われていたお約束を継承しながらも、ボサボサのアフロヘアーに気だるい感じの声のトーン、そして口を突けば上司たるブライトやメンバーに対する生意気な口の利き方。
いわゆる「アンチヒーロー型」の主人公がアムロだったわけだが、今となっては『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジをはじめそういうタイプの主人公は珍しくもなんともないが、スーパー戦隊でも4作目にしてそれを取り入れていた。
しかし、この時のスーパー戦隊はロボアニメと違いまだまだ黎明期〜草創期だったこともあり、そういうタイプを男性陣にやらせては流石にまずいという問題でもあったのか、それを桃井あきらという脇のキャラクターに担当させている

そういう意味では「デンジマン」は「戦隊の基礎」としてまるでシリーズのテンプレートみたいに言われているが、それは結果論であって「デンジマン」という作品単独で見るとむしろ異例中の異例であることがわかるだろう。
何故ならば本作以外の「ゴレンジャー」「ジャッカー」「バトル」「サンバルカン」は全て「公共機関に所属するプロフェッショナル戦隊」であり、戦闘訓練を受けた選ばれし者たちが戦うという設定になっているからだ。
つまり心身ともに鍛え上げられた爽やかなプロの戦士であるが故に「葛藤」というものが基本的に存在しにくい戦隊がほとんどの中で、本作は唯一例外的に一般人という設定だから起こりうることを実験的要素として描いているからである。
その意味では上原正三と竹本弘一ら作り手側にとって本作はむしろ「前例のないこと」づくしであり、本作を単なる「シリーズの基盤を完成させた模範的作品」というくくりに押し込めてはならないであろう。

スーパー戦隊の簡単そうで意外に奥深いところはまさにここであり、常に「保守」と「新規」の2つを繰り返しながらここまで進んでいることであり、だから安易に「様式美」なんてもので括ることはできないのである。
私が散々批判しているスーパー戦隊否定派の白倉伸一郎やそのシンパである宇野常寛一派の「スーパー戦隊は毎年明確なモチーフと様式美があって、それさえ使えば簡単に作品が作れる」という論調に猛反発しているのもそういう理由からだ。
確かにスーパー戦隊シリーズは子供向けとしては未就学児童がターゲット層であることからどうしてもシンプルさを重視した作りにはなるが、それは決して仮面ライダーやウルトラマンに劣ることを意味するものではない
むしろ、未就学児童向けだからこそ毎年飽きさせない工夫を凝らし、時代の変化とともに児童のニーズや変化を肌で感じながら向き合わなければならないという点で最も難しいシリーズであるかもしれないのだ。

緑川達也と桃井あきら

決意を固める桃井あきら

さて、今回の目玉となっているのは桃井あきらがデンジマンとして戦うことを拒否する展開だが、それに相対するのがレッドの赤城一平ではなくグリーンの緑川達也という脇のキャラクターなのも面白いところである。
共通点は2人とも1話の冒頭の段階でそれぞれにとって大切な人を殺されていることであり、これは1話のレビューで触れ忘れていたことなので、改めてここで取り上げることとする。

このように達也は自分の父親、そしてあきらはテニスコーチという指導者を失うわけだが、ここで大きく違うのはそこから先の感情面の処理であり、ここにおいて大きな差が出ているのだ。
達也は自身が刑事ということもあるのか正義感が強く、ダイデンジンの初陣でも「父さん、仇は取ったぞ!」と言っていることから、彼にとっての戦いの契機は「父親の死」だ。

父親を亡くした達也
コーチを目の前で丸焼きにされたあきら

それが彼の中で大きな戦う理由となっているわけだが、逆にいえばだからこそ同じ大切な人を失っている現実から目を背けてデンジマンとして戦おうとしないあきらを糾弾せずにはいられない。
他の赤城一平・青梅大五郎・黄山純らが「彼女に無理強いはできない」と比較的大人の対応を見せている中で、彼だけが感情を剥き出しにしてあきらへとぶつかっていく。
だが、後述するが、あきらは達也とは違い大切な人をベーダーの侵攻により亡くした悲しみをストレートな正義感へすぐに昇華できるだけの精神的な逞しさや芯の強さを持たない。
当時モデル業をやっていた弓あきらが選ばれたのはおそらくはそういう理由であり、「一般人」という等身大の感覚を一番に強く持っているのはあきらである。

ここで大事なのはいわゆる「男だから」「女だから」といった性差別によってこういう態度の違いが生じているわけではないということだ。
もちろんまだまだ男尊女卑の空気が強かった時代だが、単に戦いを拒否させるだけなら既に「ガンダム」のアムロを使ってそれをやっている。
じゃあ何が違うのかというとあきらには「世界一のテニスプレイヤーになる」という夢があり、それが彼女の源泉になっているということだ。
そしてその彼女の夢は決して「デンジマンとしてベーダーから世界を守る」という公的動機とは相容れないものであり、詰まる所はあきら自身の個人的なわがままにすぎない。

つまり達也とあきらの相克・衝突はそのままスーパー戦隊の永遠の課題の1つである「公的動機」と「私的動機」の衝突に他ならず、これは同時に前作までのシリーズ作品が触れてこなかった面でもある。
それがこの当時は「男性=公」「女性=私」という単純かつ、ある意味では雑とも言える二元論の図式に還元されているともいえるので、今ではフェミ界隈の連中が鬼の首を取ったように騒ぎそうではあるのだが。
とにかく、今回のドラマの眼目として描かれている達也とあきらの相克は同時にスーパー戦隊シリーズが今後長きにわたり格闘していく1つの重要なテーマを浮かび上がらせていたともいえる。

それにしても「自分さえ良ければ他人はどうなってもいいというのか!」という達也のセリフ、今の時代に改めて聞くと後のレッドホークの「個人的感情なんて問題じゃないだろ!」に通ずる狂気が内包されているようだ。

「着替えること」とあきらの葛藤

ピアノを弾きながら葛藤するあきら

上記を踏まえて今回大々的に描かれているあきらの葛藤を見て行くと興味深いのは実は「着替えること」、すなわちり衣装の変化があきら自身の葛藤として表象されているということである。
これは果たして脚本の段階からそう設定されていたのか、それとも弓あきらを懇意にしていた竹本監督の趣味かは判別できないが、あきらは今回コスチュームプレイを演じているのだ。
内2つは1話でも描かれていたがテニスのユニフォームとデンジマンとして戦うときの水色のジャージ、そしておそらくは今回限りであろうが室内で着ていたロングスカートに白のセーターの3つ。
これらが彼女の内面を描くものとして提示されていたのだとすれば、物語とは直接に関係のない要素としても面白く、またそれが彼女自身の人となりを面白おかしく彩っている。

ヒーローになることを拒否した代償

特に室内で心の整理がつかずにひたすらピアノを弾く場面は『超電子バイオマン』のピンクファイブや鳥人戦隊ジェットマン』のホワイトスワンにも継承されている「お嬢様」という新しい記号である。
簡素な一人暮らしのマンションの室内からも連想されるのはあきらはもしかすると実家が太いお嬢様タイプではなかろうか?ということであり、これは今までの戦隊ヒロインにはなかったものだ。
それは戦隊ヒロイン研究家のえの氏の桃井あきらの考察でも書かれていることだ。

女が男に比べて肉体的な面で劣っているのは仕方ないとして、精神的な面でも劣っているというのは、まるで戦隊シリーズ以前のヒロイン像に先祖返りしたかのように思える。
それまでの戦隊ヒロインはすべて軍人や警察官であった。キャリアも豊富で、身近な人を殺されているなど、危機意識も高い。あきらはシリーズ史上初の、一般人出身の女戦士である。勇ましさや猛々しさとは無縁の、おっとりした上品な性格は、その設定を反映したものであったのだろう(もっともそれを言うのなら、男の四人だって一般人だったぞと言われそうだが)。
とはいうものの、地球の存亡をかけた戦いの火蓋は既に切って落とされているのである。いつまでたっても一般人気分の、おっとりした女の子であっていいはずがない

そう、モモレンジャーもハートクインも初代・二代目ミスアメリカの4人とも戦いのために女であることをとうに捨てたクールビューティーであり、戦いを拒否することなんて言語道断、士道不覚悟であると詰られても仕方ない。

しかし、桃井あきらはそれまでの猛々しく勇ましい女戦士とは対照的にどこか甘やかされて育った雰囲気が目立つ世間知らずのお嬢様であり、テニスコーチに対しても精神的に依存していたのではないかと思われる。
これが以後の彼女のメイン回でも明らかに「ダメンズウォーカー」と私が彼女を評する大元になっていくのだが、あきらは結局のところ心の拠り所になるものを常に求めて生きていきたいということなのではないか。
最後は「テニスコーチとして子供達を育てる」として整理はつけたものの、それはあくまで彼女の「夢」だったものが別の形にスライドしただけで、真に心の底からデンジピンクとして戦う決意が固まったようには思えない。
本当にデンジピンクとしての覚悟が固まったのであれば「私もデンジピンクとして地球の平和のために戦うわ!」くらいは言っても良さそうだが、そういう台詞すらもなく後ろ向きなまま消極的にデンジピンクになることを決意しただけに見える。

結論からいうと、新機軸として描いたあきらの葛藤がその後の彼女の人格を形成する縦軸になっていくことはなく、目論見は失敗に終わるのだが、とりあえず仕込みとしては及第点と言ったところか。

変身後のアクションシーンへの大きな変化

改めてデンジマンとなった5人

「5人はデンジ犬アイシーに選ばれて電子戦隊デンジマンとなり、美しい地球を守るためベーダー一族と戦うのである!」

今回は変身後の名乗りにこのようなナレーションが入っていたが、このナレーションは決して「無駄な饒舌」ではなく「デンジマン」が改めて「デンジマン」として発足する契機であることを知らせるものだ。
また、ロボットに搭乗した際にも5人の掛け声が入っているわけだが、桃井あきらがデンジピンクとして戦う覚悟を決めた瞬間にやっと「電子戦隊デンジマン」になることがここで描かれたというわけである。
レッドを始め4人が既に「ヒーローになっていた」のに対してピンクという「鎖の最も弱い環」だけが戦士としての覚悟が定まっていなかったことが前回の戦闘シーンと今回の戦闘シーンの明確な違いであろう。
流石に自分が命の危機に晒されてまで自分を優先しようという気持ちがあきらにあったわけではなく、だからこそ改めて「一般人」から「ヒーロー」になるというのをパイロットで試験的に描いているのは面白い。

相変わらずの大葉健二の身体能力の高さ

これが1991年の『鳥人戦隊ジェットマン』で本格的に「真のヒーローになる物語」として描かれることになっていく、その原石を今回のドラマでは改めて示していたということなのであろうか。
現在配信中の『激走戦隊カーレンジャー』でもやはりこの「一般人が真のヒーローになるまでの過程」をコメディーとはいえ描いていたと言えるし、更にその翌年の『電磁戦隊メガレンジャー』もそのテーマと格闘している。
また変身前にも大葉健二のアクション俳優としての能力を活かしたロープアクションなどこれこそまさに「特撮」「戦隊」だからこそできることをやっていて、こういうのは本当に近年まるで見なくなった。
トータルでの出来栄えはA(名作)100点満点中80点なのだが、これは意味内容(劇作)よりもそれを肉付けする形式(映像)が非常に良かったということが挙げられる。

1話ではややもたつきが感じられたが、この2話を通して「デンジマン」がいかなるヒーローなのかも含めた基礎土台の構築は完了といったところだろうか。

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