『電子戦隊デンジマン』第9話『死を呼ぶ怪奇電話』
◼️『電子戦隊デンジマン』第9話『死を呼ぶ怪奇電話』
(脚本:上原正三 演出:竹本弘一)
導入
あきらメイン回として放送されたこの回はある意味でデンジピンク・桃井あきらというキャラクターの作劇の方向性を決定的なものにしてしまった感がある。
それは以前の感想でも触れた通り「ダメンズウォーカー」、すなわち人間的に欠陥を抱えた問題のある男たちを引き寄せてしまうというジンクスであり、売れない画家の存在がそれを決定づけた。
彼女のメイン回は基本的に彼女を溺愛していた竹本弘一監督が撮ることが多いのだが、もしかすると「あきらはこういう方向性で行こう」というのが固まったのがこの回だったのかもしれない。
これは他の戦隊シリーズとの比較を抜きにしても思うところなのだが、彼女はいわゆる「男運」というものが全くといっていいほど良くないのだが、何がそうさせるのであろうか?
他にもこの回は売れない画家の苦悩・葛藤と罪の意識という、どことなくフランスのウィスキー奇譚集にある呪いの写真に近いものを感じさせるものや、今となっては完全に古びた据え置き型の「黒電話」も出ている。
この当時はまだスマホはもちろん「携帯電話」という概念そのものがまだ発明すらされていなかった時代だから、電話に絡めるとなると黒電話になるのだが、これもまた時代性を感じさせる懐かしいものなのだろうか。
生まれた頃から携帯電話が当たり前になっている今の若い人たちにはピンと来ない文化なのかもしれないが、私たちの時代にはいわゆる携帯電話やPCという文化は存在していなかった。
それこそ黒羽翔さんとも話したことだが、私の地元の小学校・中学校にPCが設置されるようになったのは小学校5年の1996年、いわゆる「Windows95」が世間に流布し始めた時期である。
1997年の『電磁戦隊メガレンジャー』はそういう意味でWindows95やME時代のものへと移行していて、確実に「最先端の科学」のベースとなるものが本作と比べても明らかに異なる。
まあ「デンジマン」の科学技術は地球由来ではなく異星由来であるから、当然ながら技術も何もかもが違うのであるが、そういう時代性の変化はもはやネタとして消費するしかないだろう。
だからネタそのものはもはや時代遅れと言っても差し支えないであろうが、売れない作家の葛藤とそこに寄り添うあきらの存在というのは令和においても通ずるものはある。
そういう意味で、今回の話はある意味平成以降に台頭していくことになる「親近感」「お友達感覚」のようなものの元祖であるといえるかもしれない。
今ではすっかり見なくなった据え置き型電話の文化
冒頭でも書いたが、今回のデンワラーはまさに1980年代初頭の「黒電話」全盛期の時代を象徴するかのように、まんま据え置き電話をモデルとして作られたベーダー怪物である。
コメントでも触れられていたが、今だと「スマホラー」もしくは「タブレラー」にでもなるのだろうかと思うくらいに据え置き型電話が仕事以外ですっかり見られなくなって等しい。
公衆電話も出てきており、それこそその公衆電話も私が最後に使ったのは大学受験で浪人した2004年であり、以後はずっと携帯電話だったから全く据え置きの電話には触れていないのだ。
敵は今回売れない画家を引き合いに出して電話を通じて拡散していくものとしたが、今これを再現しようと思ったらSNSとスマホを用いた炎上商法狙いの拡散というものになるだろう。
なるほど、ここでつい最近触れた蓮實重彦らのいう平成の「醜悪」と昭和の「善悪」の違いがある意味浮き彫りになったような形となっている。
例えば、今回のデンワラーが典型だが、ベーダーが今回利用したのは売れない画家の苦悩・葛藤であって、それを引き金に同じ苦しみを抱えた者たちを電話を通じて罠に引き摺り込むというものだ。
今でいう特殊詐欺に近いものだが、この時代の悪党は「悪」ではあっても「醜さ」はなく、なんというか一定の美学・理念なるものはあってどこか理性的な悪であったように思われる。
手当たり次第無差別に殺すというよりも、狙いをあくまで同じ画家というカテゴリーに絞って展開しているので、あまりいやらしさや目を背けたくなるような感じはない。
そこらへんの「やっていいこと悪いこと」の区別がまだこの時代ははっきりとできており、作り手も受け手も何が善で何が悪かという道徳的観念あるいは倫理観はしっかりあった気がする。
その感覚がフィルムにも残っていて、今の時代は「悪」の前に「醜さ」がつき、その「醜さ」が「醜さ」として認識されず当たり前になってしまっているからこそ、こういう時代のものに触れておくのは重要だ。
だからマンションの一室をメインとして今回も事件は起こるわけだが、同じようなことをやっても今だとコンプライアンスだの何だのといったことが叫ばれて規制がかかるかもしれない。
面白いもので、世間一般があることを声高に主張する時、実はその重要性はすでに社会から抜け落ちて存在していないという事実がこの電話文化の件からも見て取れる。
売れない画家の苦悩・葛藤と罪の意識
今回は売れない画家・風間雄一の苦悩・葛藤と罪の意識が題材となってサスペンスが展開されているのだが、ある意味では彼の心こそ「醜悪」そのものであるのかもしれない。
特に電話口で「地獄へ落ちろ」と他の画家たちに対して言って次々に引き摺り込むわけだが、やはり「人を呪わば穴二つ」という言葉があるように彼の最期はベーダーに殺されてしまった。
この結末を迎えるのは物語としては当たり前のことであり、彼はベーダーに利用された「被害者」であると同時に無辜の者たちを間接的にとはいえ殺した「加害者」でもあるのだ。
一度「加害者」として超えてはならない一線を超えてしまった以上、たとえ後述する桃井あきらとの出会いで希望を見出し改心しようがその最期は「死」をもって償わなければならない。
ここが1つ大きなポイントであり、実は今回の主役は表向き桃井あきらのように見せているが、キャメラはほとんど雄一ばかりを写しており、彼が描いた絵も禍々しいものばかりである。
最後に彼が遺したあきらの自画像こそある意味で彼の中にかろうじて残されていた「良心」とも取れるのだが、たとえ改心しても彼の場合は「死」でなければ罪の清算にはならない。
そういう意味ではベーダーの「悪」がどこにあるのかと言えば、1つは物質的にも精神的にも「醜さ」をいかに引き出して地球を汚していくか?というところにあるだろう。
だからベーダー一族はある意味平成以降で本格的に日常化していく「醜悪」をいかにして顕在化させるのか?ということを戦隊の中でいち早くやっていた悪の組織ではなかろうか。
そもそも売れない画家と売れる画家の違いは何かというと、単なる「絵のうまさ」だけではなく、その絵の中にどれだけの熱量だったり動きだったりが込められているか?である。
あとはその熱量や動きを感じさせるその画家ならではの個性が世間のニーズなどとうまく合致するかどうかにあって、だから本来雄一という画家に罪はないのだ。
しかし、この時代にはそれを指摘できる人もいなかったのであろうし、見たところ彼の場合は独学でやっていたわけであり、明確な師匠筋となる人もいない。
やはり師匠筋がいなければどんなに優れた才能も伸びることなど決してなく、だから彼はずっと売れないまま地べたを這いつくばっている様を、キャメラはよく捉えている。
桃井あきらは欠陥を抱えた男を引き寄せる
そしてそんな売れない画家にして加害者になってしまった「醜悪」の塊である雄一をある意味で「救済」したのがデンジピンク・桃井あきらだった。
彼女は今回まるで初期設定を思い出すかのようにテニスをしていたわけだが、彼女がテニスをするときは必ずと言っていいほど深く関わった男性が死ぬ運命にあるようだ。
思えば1話でコーチが丸焼きにされたときからそうだったのだが、桃井あきらが後半に向けて出来上がる「欠陥を抱えた男を引き寄せる」という特徴はここで決定的なものとなった。
あきらはとにかく男運がなく、ゲストという形で彼女に近づいていく男は今回のように人間失格だったり、あるいは下品な心を抱えていたりするのである。
見方を変えれば、あきらの存在はある意味でいえば無自覚の「ファム・ファタール」ともいえ、関わった男たちを軒並み不幸にしてしまうようだ。
例外はデンジマンの男性陣であるが、デンジマンの男性たちはあきらに対して「仲間」という感覚はあっても「異性」という感覚で認識していない。
だから、彼女の男運の悪さが男性陣に降りかかることは決してないのだが、ゲストとして彼女を「異性」として認識した男たちは全員が不幸に見舞われている。
それは同時にベーダー一族との戦いがあきらにとっては異性関係におけるトラブルを生じさせるようなものであることを露呈させるものだったと言って良い。
今回の件もそうだが、あきらは決して異性に対してだらしないわけではないのだが、これまでの女性戦士と比べて「脇が甘い」という印象がある。
ペギー松山をはじめとする歴代の戦隊女性戦士はどこかで「女」であることを捨てて戦いに邁進するという「禁欲」の雰囲気がまとわりついていた。
しかし、桃井あきらにはそのような「禁欲」の雰囲気・空気はまるでなく、よほどのことがない限り異性を拒むような感じはなく受け入れてしまうのだろう。
それが雄一のような人間失格の人たちにとっては魅力的に映ってしまうわけであって、彼女に足りないのはそういう「禁欲」の心なのかもしれない。
今回の話はどちらかといえば脚本よりも演出家たる竹本弘一の個人的な趣味が炸裂した回だが、そのおかげで時代性に重ねた部分もありつつ、さまざまな「悪」と「ヒロイン」のあり方が散りばめられていた。
評価としてはB(良作)100点満点中75点であり、デンジピンク・桃井あきらの方向性がある意味ここで固まったと言えなくもないだろう。
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