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『電撃戦隊チェンジマン』(1985)は本当に昭和戦隊最高傑作なのか?

今まで書き散らしてきたことを含め、本格的な「スーパー戦隊論」を打ち立てようとしているのだが、改めてじっくり向き合っての作品批評となるとこれが意外と難しい。
作品を見返してみると、「あれ?こんなシーンあったっけ?」と記憶から抜け漏れているショットが必ずあるし、「あ!ここ良いかも!」と思う瞬間の再発見が度々ある。
「見る」こと、すなわち「見たものを目に焼き付ける」ことの難しさを痛感しているのだが、そんな中で自然と「あれ?これ意外に対したことないかも」と思うこともあった。
実はその1つが『電撃戦隊チェンジマン』(1985)であり、これが本当に昭和戦隊最高傑作なのかという疑惑が最近私の中でどんどん湧き出てきている。

以前にも述べたように、「チェンジマン」は確かに当時のスーパー戦隊シリーズという枠の中で可能なことをとにかく「広げた」作品であり、このスケール感は以後のどの作品も勝てていない。
少なくと『海賊戦隊ゴーカイジャー』(2011)や今配信中の『宇宙戦隊キュウレンジャー』(2017)は同じ宇宙規模の物語でありながら、どうしても描写が一面的で画面が薄っぺらい。
これは決して懐古主義での発言ではなく、「現在」の作品として全てのスーパー戦隊シリーズを横並びに見た上で尚「チェンジマン」の作品としての強度が圧倒的なのである。
映像技術は遥かに今のスーパー戦隊シリーズの方が進化しているはずなのに、それに見合う程の迫力や手に汗を握るレベルの世界観をCG使っても尚出せていない。

しかし、この「チェンジマン」が作り上げた「昭和戦隊最高傑作」という神話的な評価が今もそうなのかというと、実はそれを客観的・中立的に批評で証明した人は誰もいない
初期のスーパー戦隊シリーズは特脚本・演出共に試行錯誤で作られているから手探りなのは仕方ないが、それでも「チェンジマン」が「ゴレンジャー」よりも良いとは思えなくなってきた。
理由として一番大きいのは「メインの5人が物語の従属物になってしまっており、色気(存在感)が希薄だから」ということが挙げられる。
これは本作を見た当初からずっと思い続けてきたことであり、後半になればなるほどチェンジマン5人のキャラ描写がどうしてもおざなりになっていく。

チェンジマンの5人はそれぞれ航空・レンジャー・陸上・作戦・諜報という部隊配属と伝説獣のモチーフがあるが、これが劇中で個性として活かされた試しがない。
強いて言えば渚さやかの作戦というのは参謀として活かされていたが、これもやはり「物語に沿った役割」であって登場人物自身の魅力ではないだろう。
また、チェンジマン5人の伝説獣もそれぞれに存在しない動物であるためか、その動物たちの力を得て戦っているという関連性がほとんどない。
加えて力の源であるアースフォースに関しても、それが中盤でパワーアップのドラマとして描かれているにも関わらず、具体的にどんな力なのか掘り下げ不足である。

そして何より、そんなアースフォースを信じろと教条主義のように押し付け、殴る蹴るの暴行を加える伊吹長官の過激な思想にはついていけないところがあった。
これは今日的なコンプライアンスの問題ではなく、物語のテーマ性があまりにも強く画面を支配してしまっているという自由度の問題なのである。
曽田博久がメインライターを担当した戦隊は「ゴーグルファイブ」から「ファイブマン」まで9作あるが、いずれも全共闘時代の思想性がテーマとして張り付いていた。
特に「チェンジマン」「ライブマン」はその傾向が強く、作品全体の完成度は高まるが、やはり作品自体が視聴者に「こう見ろ」と押し付けがましいのは苦手である。

まあそれをいえば、例えば上原正三が描いた『帰ってきたウルトラマン』の伝説の回「怪獣使いと少年」も思想が画面を支配しすぎていて、好き嫌いでいえば嫌いではあるが。
ただ、まあ完成度という点では相当に高いので高く評価しているが、そういう押し付けがましさがあまりないという意味でも「ゴレンジャー」は気楽に見られて好きである。
登場人物が決して物語に従属していないし、以前も説明したように5人の役者それぞれに色気があって、最後までその存在感が薄れることがない。
「チェンジマン」でドラマを作っているのはチェンジマンではなくナナちゃんやギョダーイといった脇役やゴズマの幹部連中といった敵キャラである。

曽田戦隊の問題点は正にこの「ヒーロー側の色気(存在感)の希薄さ」であり、特に『超新星フラッシュマン』(1986)以降はそれが悪目立ちしてしまう。
この点を解消するには『鳥人戦隊ジェットマン』(1991)まで待たねばならず、90年代に入ると超個人主義が台頭し再び登場人物が物語から解放される
反集団主義として立ち現われる超個人主義はスーパー戦隊にも現れるが、とりわけ『鳥人戦隊ジェットマン』(1991)や高寺P三部作はその傾向が強い。
80年代の物語やテーマに重きを置く既存の戦隊のフォーマットに徹底的に抗った「ジェットマン」は偉大なる革新であった。

その後様々な試行錯誤と紆余曲折を踏まえて『星獣戦隊ギンガマン』(1998)が平成戦隊のニュースタンダード像として完成するという流れである。
無論、この見方には異論や批判もあるとは思うが、かつては傑作だと思っていたものがそう思えなくなってくる瞬間が訪れること自体は珍しくない。
それこそ以前は「傑作」の評価を下していた『救急戦隊ゴーゴーファイブ』(1999)も今や評価がワンランク下がったし、逆に「ボウケンジャー」(2006)は再び上がった。
「昭和戦隊最高傑作」という評価自体スーパー戦隊ファンの間で固定された一般向けの相対評価というニュアンスが強く、絶対的な固定の評価ではないだろう。

そろそろ「チェンジマン」を神棚から降ろして純粋な「作品」として良し悪しを再評価する動きが出てもいいだろう。

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