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手塚国光には「衆生済度」の概念が存在しないからこそドイツ軍として敵に回った

昨日白石の記事について書いた上で「テニスの王子様」の中学生部長組について考えてみたところ、今更ながらテニスを通した「宗教戦争」になっていたことに気づきました。
ミュージカルなどでもよく「立海は宗教・黒ミサだ」とファンから揶揄されていますが、ドイツ戦S2では実際に幸村の背中にイエス=キリストの像が重なっています。
越前リョーマにはサムライ南次郎の生き霊、お頭には阿修羅や海賊の像が比喩として浮かぶことがありますが、その点で見ると手塚国光だけが異色なのです。
なぜかと言うと、跡部様が「王様」「皇帝」といったヨーロッパの中央集権国家の文脈で育ち、幸村と白石がキリスト教をモデルにしており、お頭やデュークは大乗仏教をモチーフとしています。

この点でいうと手塚国光にはそうした「象徴的なモチーフ」がなく、手塚国光は「手塚国光」であり、師の教えに寄らないで天衣無縫の極みという悟りに到達した人物です。
今はドイツに行ってボルクたちに師事してプロになるためのテニスを学んでいますが、そももそも手塚がどうやって小学6年生の段階で百錬自得やゾーンを開眼したかがわかりません。
今後もしかすると不二VS手塚、越前VS手塚でその辺りの核心について触れてくる可能性もありますが、とにかく手塚国光は手塚国光です。
以前にキャラ考察で私は手塚のことを「独覚者」と書きましたが、今回はその辺も踏まえてなぜ手塚がドイツ軍として日本の敵に回ったのかを考察してみましょう。

手塚国光の中には実は仏教で言うところの「衆生済度」の概念が存在せず、ファンからも良く言われるように凄く自分勝手な男です。
特に海堂や不二、跡部様辺りはそんな手塚を美化し過ぎなんじゃないかと思いますが、そもそも手塚は真田といい越前といい大概酷いことしています
まず真田を6-1で圧倒して敗北感と屈辱を植え付け、越前に対しては南次郎を倒した後に目標を失ってしまうだろうからと6-1でボコして青学の柱を勝手に押し付けているのです。
越前が結果的に青学の柱を上手く受け継ぎつつそれに呪縛されなかったから良かったものの、そもそも入ったばかりの新人にそんなものを託す時点で相当自分勝手だと思います。

しかも青学の柱を勝手に越前に押し付けたのにも関わらず最後の真田との対決で「勝つのは俺たち青学だ!」と言い張るってとんでもなく酷い男じゃないですか?
手塚が「テニスの王子様」に出てくる部長の中でも特異なところは「弱っているやつに手を差し伸べる」が存在しないところなんですよね、まだこの点越前の方が優しいです。
特にそれが出ているのが都大会が終わった後の校内ランキング戦、レギュラー落ちして部活を無断で休んだ桃城に対して手塚は一切フォローせずグラウンド100周を命じるのみ。
しかも自分が持っている手塚ゾーンや零式ドロップなどを決して自分以外の者にも伝授しないし、練習メニューやオーダーを考えているのも大石や乾辺りです。

「新テニスの王子様」でもそれは一貫していて、同士討ちでは海堂がボールを意図的にアウトにしようとしているのを見抜いて全部手塚ゾーンで吸い寄せて追い込んでいます。
しかも海堂を激昂させた挙句容赦なく7-0でボコし、更にテニスを嫌いになろうとした不二に対してすらも「道標は自分で作れ」と放置してさっさとドイツに行っているのです。
これは独覚者だからこそできることなのですが、要するに手塚は青学のカリスマ部長でありながら利他的な指導や説法を一切しません、少なくとも私はそんな手塚見たことないです。
その癖「ラケットもボールも人を傷つけるためにあるんじゃない」と正義感やプライドは無茶苦茶に高いものですから人によっては相当なエゴイストと見えるのではないでしょうか。

跡部様でさえ日吉にきちんと帝王学をお裾分けして教えようとしたり、幸村も赤也に対して「最後の教えだ、その目に焼き付けろ」とプレイを通して赤也に学ばせたりしています。
白石に関しては金太郎を性格面と技術の双方から指南するなど他の部長たちが後輩に大事なものを教えている中で、手塚だけ一切そういうのを教えず「自分で感じ取れ」のスタンスです。
向こうから求めてくるのであればそれに応えるでしょうが、でも自分から働きかけるようなタイプの人間ではないんじゃないでしょうか、少なくとも私にはそう見えます。
師の教えに寄らず自分で悟りを開いているからこそ、手塚の中には他の部長やお頭が少なからず持っている「衆生済度」の概念が存在しないのではないでしょうか。

ドイツ戦のS2もそういう文脈で見ると面白く、表向きは「天衣無縫VSアンチ天衣無縫」ですが、それは同時に手塚国光という男の軽さと幸村精市という男の重さの対比でもありました。
跡部様が手塚を「日本の為でもドイツの為でもねえ。あいつは自分のために戦っている」と言っていましたが、手塚は所属先がドイツだからと言ってドイツ軍の考えに染まったわけではありません。
この自由闊達な軽やかさこそが手塚国光という男の本質であり、縛るものが何もなくなってのびのびとテニスをしている時が一番手塚らしいのだと言えます。
逆に言えば「部長の手塚です」と言って堅苦しい顔をしていた時の方が猫の皮被っていると言いますか、手塚らしくないのではないかとすら思えました。

衆生済度の概念がなく背負うものが呪縛になってしまう「テニスの王子様」においては軽やかにテニスを楽しんでいる奴こそが最強なのです。
しかし、この手塚の対極に位置するのが立海の幸村精市という男であり、彼はたとえ立海の部長でなくなったとしてもやはり帰属意識が強くあります。
それを表しているのが真田との同士討ちの時の「テニスを楽しもうと思っていたけれど、そんな余裕はなさそうだ」ではないでしょうか。
越前や手塚とは逆に「テニスを楽しもう」、すなわち「軽くあろう」として逆に「重たくなってしまっている」のが幸村精市という男です。

「テニスを楽しむテニス=天衣無縫の極み」とは何かというと「軽さ」がキーワードであり、楽しくあろうと努力するのではなく背負うものから解放された極上の快楽が天衣無縫の本質です。
それは同時に何かを背負うことで強さに変えてきた跡部様や幸村、白石にはなかったものであり、ドイツ戦S2とは正にそのような「極上の軽さ」と「極上の重さ」の違いであったように思えます。
幸村は徳川とのダブルスで「テニスを楽しめない=軽くあろうとしてもできない」自分がいたことに気づいて天衣無縫を目指すことをやめ、それが零感のテニスや蜃気楼に繋がっているのです。
こう考えていくと手塚という男は実は誰よりも部長に向いてないんじゃないかと思ったわけですが、だからこそ日本代表から外してドイツ側に敵として回したのかもしれません。

手塚って本来人の上に立つような柄じゃないんですよ、周りが勝手にそのカリスマ性で持ち上げているだけで、本人は自分が天才だなんて自覚は一切ないはずです。
むしろ天才としての自覚がないが故に先輩たちの嫉妬や反感を買っていましたし、人が奥底であれこれ考える複雑な気持ちに対する想像力を持たないのでしょう。
だから幸村のことに関しても「越前と戦ってから色々あった」とは言っても、その内実まで窺い知ることはできないしさしたる興味もないようです。
それこそが手塚の酷くて面白いところだと思いますし、許斐先生もその辺りのことは自覚の上で手塚というキャラを敵に回したという気がします。

そんな独覚者の手塚国光が抱えているこれからの課題はプロになる前にまず因縁を植え付けた者たち、具体的には越前・不二・跡部様との関係性の清算でしょう。
まあ越前と手塚は原作最終回の単行本に加筆されていた小説で戦うことが判明していますからいいとして、問題は不二と跡部様です
不二は今の手塚に挑むにはまだまだ経験値や精神面の成熟が足りていませんし、跡部様もまだまだ精神面での安定が足りていません。
テニスの王子様では精神面で欠けているところが1つでもあると、それ自体が敗因となることが大きいので決して油断はできないのです。

越前の場合はもう完成自体はしていて、あとは兄リョーガの救済と遠山との決着が残っていますが、手塚の場合はまだ清算しないといけない関係性が沢山残っています。
でも最終的に手塚を倒すのは(メタ的な意味も含めて)越前リョーマになるのでしょうねなんだかんだ言って。
次のスペイン戦はそういう意味でも越前たちがどのようにして打倒手塚に近づいて行くかというのが1つのテーマだという気がします。

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