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『電磁戦隊メガレンジャー』という作品の持つ意味内容の「不誠実」と形式上の「不気味」についての論考

現在『電磁戦隊メガレンジャー』が4話まで配信されているわけだが、よくよく見るとこの作品、もしかすると歴代で一番「不誠実」かつ「不気味」と言えるかもしれない。
こう書くととても悪い意味に聞こえるかもしれないが、決してそうではなくあくまでも「結果的にそう見える」というだけの話なので、悪意があってこのような書き方をしているわけではないことだけはご理解いただきい。
前作『激走戦隊カーレンジャー』や次作『星獣戦隊ギンガマン』とは違う意味で奇妙な感覚に陥るのだが、本作に関しては見れば見るほど奇妙な感覚にさせられてしまう。
そこで今回は何が「不誠実」で何が「不気味」なのか、その辺について4話まで見たところから語ってみたい。

まず「不誠実」に関してだが、意味内容の観点から見ていくと、そもそも伊達健太をはじめとする諸星学園の5人がメガレンジャーに選ばれた経緯自体が不誠実である。
1話の流れを見ると、ケンタがI.N.E.Tにスカウトされる→久保田博士との面接で落とされそうになる→門前払いを食らったデジ研の4人と健太が合流→いきなり敵が襲撃→その場にいた健太たちが仕方なく選ばれる、というものだ。

歴代戦隊でここまで不誠実な選ばれ方をした戦隊メンバーがかつていただろうか?

前作のメンバー選抜もだいぶ酷い選考基準だったが、あちらの場合はまだ「自分たちの車を作りたいという夢を持った若者」という共通項があって、一応戦士に相応しい心みたいなものは未熟ながらに持っていた。
それすらないのが本作の健太たちであり、いくらたまたまあの場に居合わせたからといって健太たちがわざわざメガレンジャーの変身して戦わなければならない理由などどこにもない
橘博士がデジタイザーを渡すときに「君たちは選ばれた戦士だ」なんて言っていたが、どこが選ばれた戦士なものか、たまたまその場に居合わせた巻き込み事故に思いっきり無辜の者を巻き込んでしまっているではないか。
もちろん久保田博士にも何の根拠がなかったわけでもなく、健太はゲームテストでの成績が良かったこと、他の4人はドアロック解除のときに見せたハッキング能力で才能の一端が垣間見えたことが挙げられる。

しかし、それらはあくまで「能力の一端」に過ぎず、それが全てではないのに、きちんと戦士としての適性を総合的に検査せず、またそのために必要な訓練も施さなかったが故にその場しのぎの戦いを余儀なくされた。
これがチームヒーローとしての「不誠実」であり、現実に例えるなら億単位の商談を任せるのにきちんと経験・実績を積んだプロ営業マンではなく、たまたまインターンで来ていた学生を営業に抜擢するようなものである。
会社の社運がかかった巨大プロジェクトを、なぜバイトの経験すらないまっさらな高校生に託したのか、その辺の詰め方がほぼ生煮えのまま表出してしまっているがために、私はどうしても本作にはノレない
久保田博士は取ってつけたように2話で「彼らの若さの可能性に賭ける」と言っていたが、現実の企業でこんなことを言うアホな社長はまずいないだろうから、今の時代に見直すと「リスクヘッジが全然できてない」ことになってしまう

じゃあ、メガレンジャーの正規メンバーをもう一度選び直せばいいのかというとそうではなく、一度デジタルスーツを着用すると遺伝子ナンバーが登録・固定されてしまい、あの高校生以外には着用できないのだそうだ。
そんなめんどくさいシステムだったらなぜいざという時のためにきちんとリスクヘッジをしておかなかったのかという話になってしまうのだが、1997年はまだIT業界自体が一般層に普及していないのだから仕方ないのかもしれない。
今では専門家以外でも当たり前にパソコンを使ってビジネスをする時代になっているが、この時はまだゲーム業界などの一部の専門家を除いてはパソコンは使えないような時代だったし、Windows95が主流の時代だった
だからその辺りのITの専門知識の観点から突っ込むとだいぶ荒削りに見えてしまう、詰まるところ「普遍性がない」のだが、逆に言えばよくもまあこんな内容で前作から平均視聴率を1.7%も大幅に上昇させられたものである。

そしてもう1つの形式上の「不気味」さだが、実は「メガレンジャー」という作品を見ていて個人的に不気味に感じられた点は双方が終盤に至るまでお互いの正体も目的もわからないまま戦うことにある。
だから実は健太たち5人はネジレンジャーと戦うまで実際のところ「戦場の狂気」というものをあまり知らずに戦っているし、ネジレジアの側もそれは同じで終盤になるまでなぜ地球侵略を行うのかは明確ではない。
それにも関わらず1話から表面上の「ゲーム」としての戦いのみが戦隊ヒーローの形式に沿う形で進行していくだけであり、だからどうしても本作の戦いは特に序盤の段階だと「無機質」かつ「没個性」に見えてしまう
健太たちがそもそも何のためにネジレジアと戦うのかを自覚することすらないままとにかくネジレジアと戦って地球を守れというのだから、よくよく考えたらとんでもない無理ゲーを強いられているようなものだ。

更に言えば、これが一番「メガレンジャー」を語る上での肝だが、メガレンジャーはあくまでも「スーツ性能」が戦っているのであって「健太たち自身の力」で戦っているわけでは断じてない
それはこちらで考察されている通りだ。

彼らは普通の人間より一段高い場所に立つ特別な存在ではないのです。
彼らのスーツは歴代戦隊でも随一といえるほど個性がありません。
単に色が違うのと女子の分はスカートがついているだけで、他はデザインの差異はありません。
つまり彼ら個々のためにあつらえたものではなく、誰が着てもいいはずだったものを彼らは一時的に借用しているに過ぎません。
メガレンジャースーツの性能が戦っているのであって、彼ら個々の力で戦っているわけではないのです。
彼ら個々はスーツが無ければただの無力な一般人で、戦士ではないのです。
また彼らの巨大ロボも彼らの持ち物ではなく、I.N.E.T.の宇宙ステーションに彼らが移動して乗り込んで操縦させてもらって変形させたロボなのであって、これは合体ロボですらなく、彼ら個々のビークルもありません。
まぁこれは終盤に合体ロボが出てきますが、とにかく彼らの戦う力は彼らの本来の力ではないのです。
借り物の衣裳を剥ぎとってみれば、彼らは普通の弱い人間と同等の存在でしかないのです。

そう、「メガレンジャー」は歴代でいうと「デンジマン」「バイオマン」「タイムレンジャー」と並んでスーツデザインが没個性気味であり、精々が頭のプログラムと個別武器くらいしか差別化を図られていない。
これはまあ前作「カーレンジャー」も同じだったのだが、カーレンジャーにしたってあれはアクセルチェンジャーによって伝説の戦士・カーレンジャーにアクセスして一時的に強さを得ているに過ぎないのだ。
メガレンジャーの場合はそれを地球のデジタル科学で擬似的に作り上げられたものだが、この「正体を隠しながらアイコンとなるヒーロー像を使って無敵のヒーローを演じる」という意味では「アバター」「VTuber」に近い。
要するに架空のゲームの戦士をインストールすることによって三次元に具現化したものであるが、2年前の『暴太郎戦隊ドンブラザーズ』のアバターチェンジなどはこのメガの変身システムを応用したものだ。

ここでアバターチェンジの仕組みが桃井タロウによって説明されている。

「ドンブラザーズとは暴太郎ギアをドンブラスターにセットし、桃のエンブレムがあるスクラッチギアを回すことで、内部のアバターデータを合いの手と共にロードする。そしてトリガーを引くことでデータが実体化し、暴太郎スキンとして使用者を包み込むことでアバターチェンジが完了するのだ!」

そう、アバターチェンジとは内部のアバターデータをロードして実体化するものだが、この先駆けと言えるのがメガレンジャーのインストールであり、内部のデジタルデータを335にエンターキーでインストールし、デジタルスーツとして使用者を包み込む
これらによってメガレンジャーへの変身が完了するわけだが、アバターチェンジはここから更に歴代戦隊ギアを使って変身できるというゴーカイチェンジの技術を擬似的に地球の技術を使って再現できるようにしてある。
つまりメガレンジャーとゴーカイジャーの変身システムをハイブリッドに掛け合わせたのがドンブラザーズのアバターチェンジなのだが、そういう意味でもメガレンジャーは「個性なき架空の戦士たち」の1つの到達点にして、更に先駆者でもあるわけだ。
そんな戦士が各々の正体を隠したままただひたすらにネジレジアという敵と命懸けの戦いを行うわけだから、表面上では何が起きているのかが分かりにくいということになり、それが何とも「不気味」に見えるのではなかろうか。

どういうことかというと、メガレンジャーとネジレンジャーの戦いとは要するにオンラインゲームのそれであり、当時でいえば押井守が手がけた『GOHST IN THE SHELL』や2年後の『デジモンアドベンチャー』が近いのではないだろうか。
実際には命懸けの戦いをしているにも関わらず、形式としては何だかゲームのキャラクターがデータとして戦っているだけに見えてしまうという違和感のようなものが終盤の展開でその限界を露呈するまで付きまとうのである。

ただし、昨年こちらの記事でも書いたように、「メガレンジャー」は同年の『勇者王ガオガイガー』がそうであるように、未曾有の脅威に対して地球の科学力では対応しきれない部分が多い。
長谷川裕一の「もっとすごい科学で守ります!」あたりでは確かメガレンジャーの科学技術はデンジ星の科学技術やバイオ星の科学技術を参照しつつ、I.N.E.T.が地球の科学技術で擬似的に再現したものだと書かれていたか。
なぜ「メガレンジャー」が「カーレンジャー」と並んで歴代最弱なのかというとこういうところにあって、見れば見るほど「メガレンジャー」の戦いは不誠実かつ不気味なゲームのようだ
お互いの正体や目的も知らずにただ目の前の敵を排除することだけがゲームとして繰り返され、ラストに向けてそれが限界を露呈させて1つの破壊を迎えてしまうという「脱構築」の見本市のような作品。

そういう意味では実は『電磁戦隊メガレンジャー』こそ『鳥人戦隊ジェットマン』『激走戦隊カーレンジャー』よりもクセの強い異色作なのかもしれない。

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