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「新テニスの王子様」で必要な勝利の方程式は「師匠」×「伸びる環境」×「国を背負う覚悟」

「新テニスの王子様」の単行本38巻の末尾のコメントが結構衝撃的だったそうで、特に不二周助のファンの方々はかなりショックを受けたそうですね。
私も確認しましたが、許斐先生はインタビューだと割と丁寧な言葉遣いをする分、こういう短いコメントになると割と誤解を招く言葉足らずなところがあります
なので真の意味はこちらで想像するしかないのですが、不二に関しては正直決勝前のS2決定戦でリョーマに負けさせるという結末で異論はありません。
ネットではかなり意見が割れて賛否両論だったようですが、私は正直最初からもう越前リョーマが不二周助に負けるなんて思ってはいませんでしたよ。

以前にも書きましたが、徳川と越前が決勝のスペイン戦に出ることはもうドイツ戦S1で平等院が徳川と越前に日本を託した時点で決まっていたことなんですよ。
そしておそらくこの2人はもう勝つ絵も勝ち筋も見えているでしょう、許斐先生は読者に対して丁寧なロードマップをプロセスとして見せる人で、冷静かつ論理的な方ですから。
ただ、そう簡単に勝ってもらっては困るし、決勝前に2人に課題を設けさせて「負けるかもしれない」と思わせるくらいに苦しめておく必要があります。
だから決勝前の決定戦はその意味で描かれたわけであって、今さら想定外のジャイキリがそう簡単に起こりうるわけないんですよ。

それを踏まえて今回の話は「新テニスの王子様」で必要な勝利の方程式ですが、結論からいえば新テニで勝つのに必要なのは「師匠」×「伸びる環境」×「国を背負う覚悟」です。
このいずれが欠けても負けてしまうわけであり、23.5のファンブックで許斐先生は「今回に関しては、そんな簡単には強くなれないよと。時間をかけた分いい演出を考えている」と仰っていました。
そしてさらには「高校生が中学生に生きる道を教えていく」と答えており、これらを総合して考えると旧作になく新テニで新たに付加された要素が上記の三要素ではないでしょうか。
まあ「伸びる環境」は旧作でも既に学校間の格差という形で描かれていましたが、新テニで新たに出てきた「師匠」「国を背負う覚悟」は本当に勝つために大事なものとなります。

前作はあくまでも「中学生の部活」だしWJだったからそういう少年漫画特有の「お約束」のレールに乗って進化のプロセスを省いてもいいようにできていました。
しかし、新テニでは単に練習したから強くなれるとか進化して相手を圧倒するという段階ではなく、更にその上にある厳しいハードルの戦いであることが示されています。
だから中学生たちだって滅多なことでは強くなれませんし、実際に高校生のTOP10の牙城を中学生が崩せるなんてことは一度たりともあり得なかったのです。
これが何を示しているかというと「ここから先に行くにはもう才能だけでは、天才というだけでは戦っていけませんよ」ということではないでしょうか。

そしてこれは現実のテニスでもその通りで、松岡修造氏が錦織圭の話になった時に「指導者としてのあり方」という話をしていました。

特に私が思わず「そうだ」と唸ってしまったのは「道が見えない限り、人は変えようと思わない」というくだりで、これは本当にその通りだと思います。
新テニでは中学生に必ず高校生ないしプロの師匠(メンター)がいて、旧作だと基本的に主人公のリョーマしか受けられなかった「指導者補正」が新テニでは他のキャラにもあるのです。
その最たる例が徳川カズヤと手塚国光であり、徳川には平等院をはじめ鬼や入江・種ヶ島がいますし、手塚もドイツに行ってボルクという現役最強プロの指導をしっかり受けています。
そしてリョーマもご他聞にもれず越前リョーガ・平等院鳳凰・ラインハートなどたくさんの指導者に恵まれていますし、もう中一にして平等院に日本を託される段階まで来ました。

この点で見て行くと、許斐先生がなぜ不二周助を巻末コメントで「決勝に出しても負ける」「テニプリ最後の試合」みたいな言い方をしたのかというと、上記の要素が足りていないからです。
不二周助は確かに手塚の呪縛を乗り越えたことで生まれ変わりましたが、それはあくまでも「才能に向き合い受け入れることができた」だけで「真のテニス選手になった」ことを意味しません
つまり、徳川カズヤ・越前リョーマ・手塚国光・平等院鳳凰ら真の強者の段階にまだ到達していないわけであり、だからそもそも決勝トーナメントに出させてもらえなかったのだと考えられます。
S2決定戦の越前との再戦にしたって、最後で狐火球を選んだ時点で私は不二の負けを確信しました、なぜならばあれは不二自身のプレイスタイルの限界を露呈した瞬間だったからです。

不二が最後に決め技で締める展開は悪くないのですが、それはあくまでも「実力で相手を圧倒する」が前提にあった上で最後の決め手として使うことに意味があります。
じゃああの試合はどうだったかというと、結局後半に向けてギアを上げて来た越前の実力に押された不二が逆転されたわけであり、カウンターや風の攻撃技を封じれば既に越前の方が強いのです。
赤也以外の乾・大石・来手のほとんどが不二ではなく越前の勝ちを予想していたのも才能ではなくトータルの実力や経験値といったものを総合で判断して越前が不二より上だと信じていました。
そしてそれは事実であり、確かに越前の得意技を不二は全て封じましたが、そこからの真っ向勝負になった時に不二は実力で盛り返して越前に勝てるほどの胆力や余裕がまだありません

そんな状態で一か八かの賭けで狐火球を決めて勝利したところで、それは果たして不二が「才能」ではなく「実力」で越前に勝利したことになるのかというと微妙なところでしょう。
もしこれで不二が勝っていたとしたら、不二は才能だけで勝てると増長していたかもしれませんし、そうなれば決勝戦本番でボロが出て負けてしまうことは必定です。
今まで不二は「才能」だけで伸ばしてここまで来ましたが、その「才能」で伸ばせる段階は一定の所までで、それ以上となると他に色んな要素が必要不可欠となります
本作ではそれこそが「師匠」と「国を背負う覚悟」であり、不二はまだ自分の才能をきちんと引き出してくれる「師匠」に出会えていないし「国を背負う覚悟」もまだ不完全です。

黒部コーチがMEMOで指摘している「コート上の美学にこだわり過ぎなければ「上手い」から「強い」に変われる」という意味もここまで考察することでやっと可視化できました。
不二のコート上の美学とはいざという時まで本気を出さずに相手合わせで「才能」を出すことであり、いざという時にそこに依存してしまう傾向にあるということです。
そして大抵才能でなんとかなってしまうがために独学・自己流を押し通してしまい、指導者や先輩・環境に恵まれずに伸び悩んでいるということではないでしょうか。
手塚が言っていた「道標は自分で作れ」というのも「自分を伸ばして導いてくれる人は俺ではなく、自分で探せ」という意味も含まれているのかもしれません。

松岡修造が指摘するように、人は結局道が見えない限り自分を本気で変えようとは思わないわけであり、それはテニプリの登場人物とて例外ではないのです。
不二周助は確かによく才能だけでここまで伸びて来たなと高く評価しますが、そろそろ「師匠」と「国を背負う覚悟」の2つが更に上のステージに行くためには必要となります。
越前・手塚・徳川はもう既に持ち合わせているものであり、不二が彼らの高みへ上り詰めようと思ったら最低でもこの2つをどこかで手に入れなければなりません。
ただ、不二は相手合わせでしか進化しないところがあり、そこが厄介なのでなかなかその機会が回ってこない、というのが許斐先生にとっての悩みのタネではないでしょうか。


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