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『ジョジョの奇妙な冒険』第1部の魅力〜沢山の親に囲まれて育った荒木飛呂彦と親なき突然変異の鳥山明〜

突然だが、現在ふと思い立って荒木飛呂彦先生の『ジョジョの奇妙な冒険』第1部の漫画及び2012年のアニメシリーズを見直しているのだが、やはり「ジョジョ」はふとたまに思い立って見るくらいが良い作品だと思う。
荒木先生の独自性が高い作風と絵柄、また作品の中に多数散りばめられているオマージュの要素の多さからどうしても初見だと敬遠されがちだが、そういう予備知識がなくても十分に楽しめる
各ストーリーが『ドラゴンクエストⅣ』のような章立てになっているので「長い」と感じる「ダレ」がなく、テンポの良さと熱量の高さで一度読み始めるとあっという間に最後まで駆け抜けてしまうドライブ感が物凄い
そして改めて思ったのはネットミームや芸能人たちがネタとして擦り倒しがちな「ジョジョ立ち」に惑わされず見ていくと、作品そのものがきちんと「ジャンプ漫画の王道」をしっかり押さえて作っていることに驚かされる。

それを一番ダイレクトに感じさせるのが第1部「ファントムブラッド」なのだが、「ジョジョ」を読む際に「何部から読めば良いですか?」と問われたら間違いなく1部から見るのが正当なルートだ。
処女作にはその作家の全てが詰まっている」という言葉通り、「ファントムブラッド」は「ジョジョ」の世界観・物語・キャラのあらゆる「根幹」「基盤」が形成される入門編である。
長きに渡って奇妙な因縁・関係性を構築することになるジョナサン・ジョースターとディオ・ブランドーの物語の始まりであり、同時に荒木飛呂彦の「ジャンプ漫画批評」が詰まっていて今見ても古びない
そして不思議に思ったのはどうして「ジョジョ」は作品それ自体が面白く高く評価されているのに、ネットだとどうしても「ジョジョ立ち」や強烈な台詞回しといったネタばかりが強調されるのだろうということだ。

特に「アメトーーク」のジョジョ芸人の回はどうしてもそういう奇抜な面ばかりが注目されがちだったが、私は正直荒木飛呂彦先生ほど自身の作品の中で「80年代ジャンプ漫画批評」をやってのけた人はいないと思う。
それも冷徹に茶化すやり方ではなく、あくまで「王道」であることを踏まえた上でかつてのジャンプ漫画に不足気味だった「能力の個性化・差別化」「強さのインフレ批判」といったカウンターをしっかりやっている。
ご自身でも公言していたように、あらゆる先人の漫画から受けた影響だけではなく、西洋の彫刻・美術の造詣の深さやクリント・イーストウッドをはじめとする映画へのリスペクトなども多分に含まれているだろう。
中でもやはり80年代ジャン漫画を牽引していた車田正美先生の影響は大きく、具体的にはジョースターとディオの奇妙なライバル関係は「リングにかけろ」の高嶺竜児と剣崎順を彷彿させる。

純粋な正義感に溢れながらどこか弱々しかった主人公と対をなすいじめっ子体質のドSなライバルという対比、そのドSなライバルに強烈なカウンターをお見舞いすることで始まる主人公とライバルとしての因縁。
表向きは「戦友」「親友」かのように描かれつつも裏ではあくまで「ライバル」であり、最後は破滅で終わるといったところも含めてここまでストレートに80年代ジャンプ漫画の王道を再現するかと驚いた。
もちろん、作品の独自性として「波紋」やツェペリとの師弟関係などあらゆる王道的要素が詰まってるが、「ジョジョ」は個人的な印象だと「ドラゴンボール」よりも遥かに「80年代ジャンプ漫画」を素直にやっている
むしろ、第一部を再読・再見して思ったのは「ドラゴンボール」の方が明らかに「ジャンプ漫画らしからぬ突然変異」なのではないかということだ。

車田正美先生以前だと梶原一騎や中島徳博、本宮ひろ志など様々なジャンプ漫画作家がいたが、荒木飛呂彦はそうした先人の歴史を踏まえてリスペクトするところは大いに己の血肉としている。
それでありながら、差別化として波紋やスタンドといった「能力バトル」によって「力の強弱」とは異なる「IQバトル」の概念を確立している(冨樫義博もこの系譜に当たるだろう)。
今ではすっかり「ジョジョ」自体が1つのブランドと化して、まるでラーメン二郎みたいな「ラーメンであってラーメンじゃない」、すなわち「ジャンプ漫画であってジャンプ漫画ではない」という位置付けになっている。
しかし、作品を読めばこの第1部だけを見ても明らかに「80年代ジャンプ漫画」の延長線上に存在していることがわかるし、世間に言われるほど奇抜な作品という感じはない。

何かと異端児・異色扱いされがちな「ジョジョ」並びに荒木先生だが、インタビューなどを読む限り先生は極めてジャンプ漫画家として真っ当な感性を持った人だと思う。
それこそ私が以前に交流を持っていたとある方も先生の「完全に死んだのに生き返ってくる漫画が嫌」という発言をDB批判だと安直に解釈してたっけ、本来は全然違う意味なのだが。
とにかく、今の若い世代も含めてカルト・マニア人気が非常に高い「ジョジョ」だが、実は後世の作品に与えた影響(その中には「鬼滅」も含まれる)は相当に大きい。
少なくとも「ジャンプ漫画」というジャンルに対することで言うなら間違いなく王道的であり、沢山の親に囲まれてすくすくと育ったのが荒木飛呂彦という作家なのだろう。

逆に言えば、この「ジョジョ」を読むことでいかに鳥山明という作家が親なき突然変異の存在であるか、むしろジャンプ漫画という歴史の中で良くも悪くも浮いた存在であるかがわかる。
意識的に「80年代ジャンプ漫画」を批評しつつ独自の漫画を構築して1つのブランドを形成した「ジョジョ」とはまるで対極の位置に存在するのが「ドラゴンボール」ではないかと思う。
以前にも書いたように、『ドラゴンボール』は一見ジャンプ漫画の王道に沿っているようでいて、実はそうしたいかにもな「ジャンプ漫画」なる要素は人気絶頂期のサイヤ人編(アニメ版Z)に入ってからだ。
人間関係の因縁を丁寧に構築しながら熱いドラマ・バトルを展開していく「ジョジョ」とは対照的に「ドラゴンボール」の人間関係はとても淡々としているし、戦いにも実は因縁という因縁がない

以前にこちらの記事でも触れたように、「DB」はナメック星編まで「球をめぐる上昇志向=ドラゴンボール争奪戦」を軸として話が展開される。
少なくとも序盤の孫悟空はブルマのドラゴンボール探しに付き合わされただけで、その過程で敵として立ち塞がる相手と戦っていただけであり、天下一武道会にしても別に善悪の戦いではない。
レッドリボン軍との戦いやピッコロ大魔王との戦いにしたって、その中心にドラゴンボールが絡んでいて、尚且つ個人単位で例えばクリリンを殺されたとかたまたま知り合った人を殺されたとかいうことでしかない。
すなわち、ゆきずりでできた短い人間関係の中で個人的な理由のために戦っていただけであり、例えばそれがジョジョとディオのような切っても切れない因縁めいたものがあるわけではないのだ。

サイヤ人編に入ると、悟空は自身のルーツがサイヤ人だと明かされたことで戦う目的も変化していくが、同じサイヤ人のベジータやナッパもあくまでドラゴンボールを探す過程で悟空とぶつかることになったのは変わっていない。
唯一因縁めいた純粋悪といえばサイヤ人を滅ぼした帝王フリーザが挙げられるだろうが、あれも結局はドラゴンボール争奪戦というドラマツルギーから派生した枝葉であり、決して善悪の戦いではないのである。
映画「神と神」の野沢雅子との対談でも語っていたが、鳥山明は「悟空はとにかく純粋で「強くなりたい」というのだけをまっすぐ行ってる珍しい奴。結果的にいいことをしてる感じを出したかった」と語っていた。
私よりも若い世代の方々が「ジョジョ」「キン肉マン」を高く評価し「DB」を低く評価する理由の1つに「悟空がヒーローではないから」というのが挙げられるが、それはむしろ鳥山先生の意図だからそう思わせた時点で大成功である。

戦闘シーンに関しても同様に「DBはただ殴る蹴るエネルギー波を出すだけの単調なものなのに、何が面白いのか?」「ジョジョの方が駆け引きがあって面白い」ということをよく指摘される。
しかし、これも実は鳥山先生の狙い通りであり、「DB」は物語にしろキャラにしろ、そしてバトルにしろ徹底した引き算と圧縮で作られており、常々「シンプル」であることを心がけていた
なぜかというと1つは当時のジャンプ漫画の主流が車田正美を継承した熱血スポ根路線が主流であり、バトルにも因縁や思想面などを強調するようなものが多かったからである。
それをしっかり分析した上で鳥山明は逆張りとして幾分突き放しながら淡々と物語やキャラを描きつつ、バトルに関しても因縁や思想面を殊更に強調せずシンプルに動きとスピード感、その場の臨場感で見せていた

そしてそれを可能にしていたのが根幹にある「ドラゴンボール争奪戦」であり、いいやつも悪いやつも全員がドラゴンボールというドラマツルギーの元で対等に描かれている。
人造人間編以降ではこの根幹が崩壊してしまったために人気も低迷・凋落していったが、「ジョジョ」とは対照的に徹底して「ジャンプ漫画らしからぬ突然変異」であり続けたのが「ドラゴンボール」という作品並びに鳥山明という作家だ。
つまり80年代ジャンプ漫画から思想面だったり因縁だったり汗臭さや泥臭さといった側面を極力排し読者が楽しく読める漫画であることを徹底した結果、他の追随を許さないほどの独自性の高い作品になったのである。
だから再現性や継承のしやすさであればお手本にするべきは間違いなく「ジョジョ」の方であり、人気も含めてジャンプ漫画の王道を形を変えて独自の突っ走り方をしている、すなわち「形式的異色かつ意味的王道」なのだ。

それに対して「ドラゴンボール」は形式的にも意味的にも徹底した異色であり、少なくとも既存のジャンプ漫画における「スポ根」「劇画」という要素からは全く異なる文脈から来ている。
もちろん「ジョジョ」同様に「DB」も『ONE PIECE』をはじめとして様々なところに多大なる影響は与えているが、その作風や路線は一代限りで継承は不可能であろう
公式に弟子として認められたとよたろう先生やドラゴン画廊・リー先生の「ヤムチャ転生」ですら鳥山明先生の絵のタッチやドライながらも優しい作風は再現できていない。
そういう意味では、「ドラゴンボール」はむしろなぜあの作風でジャンプ漫画黄金期に世界レベルの人気を博し、まるでジャンプ漫画の代表であるかのように評価されているかが不思議ではある。

80年代ジャンプ漫画の王道に対するリスペクトと継承をしっかりやってのけた「ジョジョ」とそういうジャンプ漫画とは異なる文脈から継承不能な独自性の高い作風を編み出した「ドラゴンボール」。
どちらもジャンプ漫画黄金期に人気を博し、未だなお語り継がれるほどの作品になっているという事実には原体験世代であることを別としても驚くばかりである。
もし私がもっと早くに「ジョジョ」に出会って敬遠せずに読んでいたら、それはそれで違った感性が今頃育まれていたのだろうなあと思う。
「DB」のような原体験ならではの特別な思い入れがあるわけではないが非常に高水準なクオリティーの高いA(名作)、それが私にとって今改めて見直す「ファントムブラッド」だ。


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