三流は無視、二流は称賛、一流は非難という野村克也理論は「テニスの王子様」にも活かされているのではないか?
「新テニスの王子様」の10.5の黒部MEMOと原作の実際の評価を見ていて面白いことに気がついたのだが、今回はそれについて論じてみたい。
新テニのファンブック10.5には各選手のプロフィールには黒部MEMOという形でコーチ・監督からの評価が各キャラクターに寄せられている。
これが実際の原作での描写と必ずしもリンクしているわけではなく、評価と実態が食い違っていることがファンの間でも議論となっているようだ。
しかし、これは決しておかしいことでも何でもなく、スポーツの世界でも何でもより高いステージに上がるとよくあることなのである。
野球界に様々な変革をもたらした故・野村克也監督の「無視・称賛・非難」という育成理論をテニプリファンの皆様はご存知だろうか?
人は常に3つの段階で試されており、三流の選手は無視して奮起を促し、二流の選手は褒めて自己肯定感を高め、そして一流の選手はチームの面前で厳しく叱りつけるという。
逆にいえば、褒められているうちはまだまだ二流ということなのだが、これが旧作から新作まで一貫しているテニプリの評価スタイルではないかと私は考えている。
ここでは原作での実際の描写とファンブックの例を参考に、一流になれる可能性を秘めている人とそうでない人の違いを見て行こう。
評価されることすらなく終わっていく有象無象の三流
三流の例でいえば中学生のレギュラー入りしているメンバーのほとんどがそうだが、最たる例は青学の桃城や不動峰の伊武・神尾、氷帝の向日といったあたりだろうか。
基本的にこの人たちは「やられ役」として扱われており、大体は主人公をはじめとする強敵の存在感を演出するためのバーター・引き立て役として扱われているのである。
特に桃城なんてその典型みたいなもので、初登場が越前リョーマの強さをわかりやすく見せるための引き立て役として描かれており、そんなに強くは見えなかった。
氷帝の向日にしても関東大会だけならともかく全国大会までボコられ、ファンの間では氷帝のお荷物としての評価が盤石となり、新テニでも特に見せ場はない。
不動峰の伊武・神尾にしたって、伊武は越前と遠山の超1年生にボコられたザコだったし、神尾にしてもまともな見せ場は千石に勝ったところしかなく、あとは不憫なやられ役だ。
許斐先生からも「橘の妹をデートに誘おうとするけど、兄の目が光っているから悉く大失敗」という報われない評価をされており、挙句四天宝寺戦でも謙也のかませ犬にされている。
これらの選手にいえることは長所自体はそこそこあるものの、他に足りないものが多すぎるか才能がそもそもないことで無残な没落を味わっているということだ。
だからコーチの評価にはカスリもしないしGenius10のメンバーからの評価をされることもなく、所詮は「中学生の部活」レベルでしか戦えていない。
こいつらは「ザコ」といっても過言ではなく、自分の強さと相手の強さを測り間違えて「俺は完全に理解した!」というバカの山の段階から先へ進もうとしないのだ。
ザコキャラは決して実力や才能がないからザコなのではなく、そもそもの意識の部分において甘さがあり隙だらけであるという大きな欠落が存在している。
そこに気づいて進もうとすればまだ二流のステージには登れるのかもしれないが、残念ながらその段階へ到達できている三流は1人もいない。
だからさしたる見せ場もなくあっさりと消えてしまっているというのがほとんどではないだろうか。
評価されているものの、イマイチ突き抜けられていない二流
テニプリにおいて最も多いのはこの「二流」の連中、すなわち周囲からの評価が高いものの実際の描写としては思ったほど突き抜けられていない選手たちである。
この二流は大きく分けて2つの層があり、いわゆる「三流に近い二流」と「一流に近い二流」があって、前者と後者ではだいぶ大きな差があるのではないだろうか。
前者の例はルドルフの赤澤、山吹の千石、氷帝の忍足、四天宝寺の謙也辺りがそうであり、三流の連中よりは上だが割といいところがないため評価が微妙である。
そして後者の例としては青学の不二、山吹の亜久津、氷帝の跡部、立海ビッグ3と赤也、四天宝寺の白石・遠山辺りがそうではないかと私は見ているのだ。
まず前者に関してだが、赤澤と千石は「全国区」なんて評されていながら実際の試合の描写ではそんなに強くは見えないという特徴が挙げられる。
特に千石はなかなかの強者でありながら桃城や神尾のような格下相手に下剋上を起こされて負けているし、忍足にしてもあまりいい描写がなく強さが安定しない。
そして四天宝寺の謙也も「浪速のスピードスターの方が上やっちゅう話や」なんてドヤ顏で神尾をかませ犬にしたのに、準決勝のD1には出られていないのだ。
新テニでも桃城と組んで下剋上は起こしたものの大した見せ場はなく、こういうところ忍足家はやっぱりテニスにおいて突き抜けられないのだなと思えてならない。
そして後者の例がある意味最も報われない立ち位置にあり、特に青学の不二と氷帝の跡部様はどうしても実績も評価も全国区の強さがありながら二流止まりである。
特に不二は「天才」と評されていながら白石に真っ向から「無駄が多い」「ガムシャラになって流れが変わるほどテニスは甘ないで」と否定されるまでどこか二番手に甘んじていた。
跡部様にしたって入江に「キミの自尊心が成長を妨げている」と否定されるまで、真っ向から跡部様の欠点を指摘してくれる人はいなかったのではないだろうか?
なまじ王様で自己完結しているばかりにコーチや監督も「注文はなし」と言われているが、私はこれが逆に危険ではないかと思うのだが、これに関しては後述する。
批判しかされなくなり重圧に耐えて戦う一流
テニプリにおいてほんの一握りしかいない「一流」だが、この段階にいる人たちは基本的に対戦相手からも監督・コーチからも批判しかされず褒められることはほとんどない。
中学生でも高校生でもこの段階にいる人は数少なく、中学生だと手塚と越前の青学の柱2人がそうだし、フランスの王子もまたそのような人ではないかと私は思う。
そして高校生で一流と目されているのは平等院・アマデウス・カミュ・ラインハート・ボルク・メダノレ辺りのプロあるいはプロ級の実力を持った連中ではないだろうか。
徳川も平等院から目をかけられていてここに入れる可能性があるのだが、この段階になると求められるハードルがとんでもなく高いものを要求される。
例えば越前は対戦相手から批判しかされないがそれでも真正面から立ち向かいそのプレッシャーを跳ね除けて勝利を1つ1つもぎ取って強くなってきた。
手塚にしても同じような経験をしており、また手塚はドイツに移籍すると今度はボルクから同じようにダメ出しを食らう毎日が待ち受けている。
ボルクと手塚の厳しい練習のシーンはまるで錦織選手とマイケル・チャンコーチを彷彿させるが、これはプロになれるからこその期待の表れだ。
越前にしたって監督・コーチから厳しい評価をされ続けているし、徳川も平等院から「徳川!少しはやるようになったんだろうな!」と言われている。
一流のステージに上がると厳しい重圧に耐えなければならないが、それを耐え忍んで勝利をもぎ取っていく中で芯の強さが形成されていく。
かけられる言葉も厳しくなるわけだが、一流の選手たちは誰かから褒められるという段階をとうの昔にくぐり抜けて自分の足で歩くことができる。
だから指導する側としても褒めるわけにはいかない、褒めるということはその人材に対して甘く見ていて褒めなければ伸びないことになるからだ。
批判や非難を浴びてもなおそれに耐える強さを持ってこそ真の強者として認められるのではないだろうか。
不二・跡部様・遠山はまだまだ二流
このように見ていくと、決勝のスペイン戦に出る跡部様と遠山、そしてファンから出られるかもと期待されていた不二はまだまだ二流であることがわかる。
不二はこれまでの記事で述べてきたように「才能」だけなら手塚・越前を上回るが、それでもお頭からの評価は「いずれ脅威になる=現段階ではまだ脅威ではない」に留まっている。
つまり将来性への期待ということなのだが、周りからは天才であることで褒めそやされているが、その段階を終えて批判されるようになって初めて一流となれるのではないだろうか?
対越前の試合でも赤也といい乾といい不二のセンスが褒められていたが、その段階より上に行かないと手塚や越前がいる高みへ到達することはできない。
次に跡部様だが、実は一番危険なのが跡部様であり、10.5の黒部MEMOで「注文はなし。美技を極めてほしい」と評価されているのだが、これこそ私は危険だと思っている。
コーチ陣から高く評価されていて課題点がないということは逆にいえば改善の余地が監督の目から見てないということになり、所詮二流でしかないと言っているようなものだ。
そこを入江は見抜いて厳しめのアドバイスをしているが当の本人が聞く耳を持たないという危険な状態であり、ここをまず切り抜けないと一流のステージには行けない。
現に天衣無縫対策が決勝にさしかかろうという段階でできていない時点で危ないし、「屈辱を受け入れる」ということは決勝は確実に敗北フラグとなるであろう。
そして遠山だが、彼が最も不幸なのは1年にして四天宝寺の中で最強の座を勝ち取ってしまい天衣無縫に最短距離で行ってしまったことではないだろうか。
不二と同じできっと周囲からはその潜在能力や才能が素晴らしいと褒められ続けることに慣れ、本人も自分がいかに未熟かを痛感する機会もなかったと思われる。
それに越前リョーマにいつまでも固執して天衣無縫に依存した戦い方をしており、苦手なコースや弱点を突かれていることを白石や幸村から指摘されていた。
ということは、遠山もまだまだ二流の段階であることの証ではないかと思うのである、ようやく上級者向けのアドバイスがされるようになってきたということだから。
こうして言語化してみて、なぜこの3人が手塚や越前のワンランク下なのかがわかった、彼らはまだまだ褒められている二流のステージにいるからである。
そこを潜り抜けてどんな屈辱や批判にも耐えられるようになってこそ真の強者への道を歩むことができるようになる、ということであろう。
ノムさんの「無視」「称賛」「非難」の考え方は強者の理屈ではあるが、実は「テニスの王子様」にも結構通底している考え方だと私は思う。