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原作至上主義者が見る映画『リョーマ! The Prince of Tennis 新生劇場版テニスの王子様』感想〜リョーマと桜乃の解釈への耐え難い違和感〜

昨年公開された映画『リョーマ! The Prince of Tennis 新生劇場版テニスの王子様』をレンタルにて視聴、一応私は「テニプリ」に関してはアニメ・ミュージカルも一通り見ています。
ただ、あくまでも私は原作至上主義者なので許斐剛先生が描く原作漫画が全てであり、アニメやミュージカルなどは「公式」と名乗っていてもあくまで「二次創作物」という解釈です。
まあ許斐先生自身がそのアニメやミュージカルからの逆輸入をよくなさる方なので派生形でも面白ければいいという解釈ですが、そんな私が見た今回の映画は「面白いけれども違和感」でした。
いわゆる「つまらない」のではなく、映像や演出では目新しいものを沢山用意してくれているし綺麗にまとまっているとは思うものの、一方で「これは違う」と思った部分も多々あります

脚本がかの有名な秦建日子なので予告の時点で危惧していたのですが、やっぱりどこまで行こうと「HERO」「ドラゴン桜」みたいな感じの勧善懲悪でしかありませんでした。
こんな書き出しをする時点でお察しだと思いますが、私はこの映画ぶっちゃけ好きではないですが、「テニプリ」を知らない外向けのファンサービスとしては確かにまとまっています。
最終的にGOサインを出しているのは他ならぬ許斐先生なのでこの解釈でも許されたのかなとは思いますが、ただそれをどう受け止めるかは個々人で違うので、私の意見は別にあるのです。
端的に結論から言えば、「テニプリはそんな安いロマンスものじゃねえよ!」というのが私の中で物凄い違和感としてあって、特に主題歌「世界を敵に回しても」の歌詞の次のフレーズに違和感を覚えました。

世界を敵に回しても 守るべきもの全てが 俺をまだ強く強くさせるから

しかもこれに重ねるかのように若き頃の南次郎が現代リョーマに「彼女を守れるのか?」と問いリョーマが「守ってみせる」と言うのですが、安易に「守る」なんて言葉を使って欲しくはないです。
「テニスの王子様」は「SLAM DUNK」みたいに男の子が惚れた女の子のために承認欲求で頑張るスポーツ漫画じゃないし、リョーマもそんなことを口にするキャラじゃないでしょう。
許斐先生が仰ったようにテニプリは「悪人が更なる悪人を倒す物語」という一種のピカレスクロマンであって、「守るため」とかそんなありがちヒーロー作品ではありません。
やたらと桜乃を前面に押し出したりリョーマが桜乃を巻き込んだことに対して罪悪感を覚えて謝罪したりしていましたが、他はいざ知らずリョーマってそんな殊勝なキャラでしたっけ?

ミュージカル演出がどうのこうのとかタイムリープとかそういう目につく演出以上にまずそもそも許斐先生の原作から明らかに乖離したリョーマと桜乃のキャラと関係性が気になります。
私は確かにリョーマと桜乃、いわゆる「リョ桜」は嫌いではないし新テニでもリョーマVSプランスで少しそういうものは描かれていましたが、でもその文脈を全面に押し出して描くのは違うでしょう。
リョーマとプランスの戦いには確かに竜崎桜乃争奪戦という要素もありましたが、でもそれ自体が勝負の決定打にはなったこともリョーマの強さの根拠になったこともありません。
プランス戦に関しては別個で記事を設けて考察してみますが、今回のこれは「よくできたファンの妄想を公式が叶えたらどうなるか?」を超えるものではないと思います。

守るものが強さの根拠になるというのはあくまでも仮面ライダーやスーパー戦隊シリーズ、ウルトラマンのような「守るための戦い」をしている人たちが口にすることです。
しかし「テニスの王子様」の場合、あくまでもリョーマが戦い続けるのは「こいつを倒したい」「テニスでは誰にも負けない」であり、そしてその先にたどり着いた「テニスって楽しいじゃん」なんですよ。
見てみるとわかると思いますが、リョーマがテニスをする原動力に竜崎桜乃は関係ないし、むしろ「おむすびをマズく作る方が難しいんじゃない?」「あっそ」と素気無く返しています。
これはいわゆる「ツンデレ」ではなくリョーマの中心にあるのはあくまで「テニス」であって、そこに直接関与しない竜崎桜乃を「守るべきお姫様」みたいに扱うのは違うでしょう。

ミュージカルではむしろ桜乃がいなくても物語は成立しているわけで、あくまでも男子テニスという文脈だから女の子は所詮プライベートのちょっとした華やぎというか添え物程度でいいのです。
テニプリで女の子が絡む場合はラッキー千石や葵剣太郎がそうであるように「男をダメにするもの」でしかありませんし、ビーチでのナンパにしたってたまの息抜き程度でしかありません。
ホモソーシャルな男のみのコミュニティーで成り立つのが「テニスの王子様」の世界観ですし、そこで桜乃を全面に押し出すとむしろテニプリの世界観が台無しになってしまう気がします。
私は男性なので腐ではありませんが、リョ桜は基本的にラブロマンスではなくあくまでも知り合い以上友達未満の同級生でいいわけですし、彼女とのラブロマンスをやるならファンの妄想程度でいいわけです。

むしろ「テニスの王子様」において「守るべきもの」「抱えるもの」は「呪縛」にもなってしまうわけであり、そこに囚われてしまうと「テニスそのもの」という本質が見失われてしまいます。
テニプリにおける最適解は何かというと勝つために必死に自分を追い詰めた自分の壁の向こうにある突き抜けた「テニスが楽しい」という圧倒的幸福感であり、背負っているものを解放することが肝要です。
桜乃が言っていた「リョーマくん、楽しそう」が全てであり、リョーマも幸村に「楽しんでる?」と問いかけていて、だけどその幸村は「勝つこと」「立海三連覇」「常勝」に固執してしまっています。
そんな風に凝り固まった意識のままでは雁字搦めになってしまうわけであり、だから「守るべきもの」のために戦うなどという安易なヒーローものの構図を持ち込まないで欲しかったです。

確かに原作でも南次郎が倫子をいじめた卑劣なテニスプレイヤーをテニスで制裁していましたし、リョーマもテニスで悪党を成敗していましたが、根っこはあくまで「テニスが好き」でしかありません。
母親の倫子にしても竜崎桜乃にしてもテニスを突き詰めていった先に出来たものであって、リョーマも南次郎も根っこにあるのは「テニスを楽しむ」ことにありました。
個人的にはリョーマと桜乃よりもむしろ現代リョーマと全盛期のサムライ南次郎が出会ったことに意味があると思っていて、一テニスプレイヤーとして会ったのはこれが最初で最後です。
だから、タイムリープを使ったことに関しては別に構いませんしむしろ好きなんですけど、そのスパイスに竜崎桜乃やリョ桜を使うのは違います。

今回の話は確かにリョ桜ファンやテニプリを知らない外のお客様にとっては色んな仕掛けがなされていて面白いのでしょうが、原作をしっかり追っている私にとってはとんでもない違和感でした。
だからファンサービスという意味ではよく出来た公式同人作品として評価できますが、じゃあこれを原作準拠の公式アニメ映画として受け入れられるかというと、それは違います。
第一「テニスの王子様」なんだからテニスシーンが多くてなんぼなのに、どうでもいいダンスやラップバトルのような「テニミュ」を逆輸入したような演出ばかりですしね。
もちろん許斐先生がリョーマと桜乃を公式で描くのは構いませんし恋愛しようが結婚しようが別にいいんですが、それは物語の核ではなくひっそりと匂わす程度に止めておいて欲しいところです。

個人的に越前リョーマは確かに強くなる過程で色んな人の助けや支えを借りることはありますが、それはそれとしてリョーマ自身はとても図太い天上天下唯我独尊です。
手塚と同じ独覚者(師の教えに寄らず悟りを開き利他的な説法を行わない者)であり、悪人救済の使命を背負ってはいるものの、あくまでもそれは「結果」であって「目的」ではありません
ファンの理想を叶えた同人作品だったらまだしもこれが公式の正当な番外編と言われると違和感しかありません、「テニプリ」はそんな小さな箱庭世界の話じゃないですよ。


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