「現在」の作品として「画面の運動」という観点から見る『未来戦隊タイムレンジャー』とはどんな作品か?
昨日からYouTubeで『未来戦隊タイムレンジャー』(2000)が配信をスタートしたが、これが何故、どういう風の吹き回しでそうなったのかは私にも理解しにくい。
しかし今このタイミングで配信されることをある種の驚きと共に嬉しさもあり、割と複雑な思いでこの作品と向き合うことになろうとは思ってもみなんだ。
正直なところ、「タイムレンジャー」に関しては私自身まだどのような作品なのか位置付けがはっきりしておらず、客観的な評価としてもまだ十分に固まりきっていないと思う。
現段階ではっきりしていることは脚本家・小林靖子の作家性が色濃く反映されている作品であることと、歴代の中でも異例中の異例を「ジェットマン」「カーレンジャー」以上にやったことだ。
だが、映画や他のサブカルチャーも含めて見るとわかるが、実は「タイムレンジャー」という作品において目新しい要素は実は1つも使われていない。
例えば未来人が過去の世界にやってきたという時空SFの構造は『バック・トゥー・ザ・フューチャー』『ドラえもん』あたりに代表される手法である。
また、変身後のアクションは役者たちが突っ込んでいたように「マトリックス」の露骨なパクリだった(まんま使っているので、もはやオマージュですらない)
また5人の若者たちがそれぞれの人生に深入りしないまま奇妙に事情だけが重なり合いながら進む群像劇の構造も『ショート・カッツ』『マグノリア』で使われた手法だ。
すなわち、スーパー戦隊シリーズの中で見ると斬新で画期的に見える意欲的な要素はそのいずれもが90年代までで散々使い古された手法なのである。
ファンは未だに作風の突飛さだけで騒ぎ立てているが、私に言わせればもうすでに様々なサブカルで使われた通俗的なものしか実は「タイム」にはない。
意外と指摘されないことだが、実は「タイム」は決してエポックではなく、むしろ古典的なSF映画をどれだけ卑近な群像劇の構造を使って再現できるかに挑んでいる。
その意味で2000年に作られた作品でありながら、実は根幹にはまだ色濃く90年代の残滓があり、その意味で「最後の90年代」というべき作品であろう。
まずは対外的な歴史・芸術の繋がりとして上記を押さえておくとして、問題はここからであり、誰もまだ実は本当の意味で「タイムレンジャー」を「見て」いないのではないだろうか?
1年半程前に書いた私自身の評価ももう正直古く、かつ「現在」ではなく「過去」の作品として論じており、何より「画面の運動」としての側面を論じていない。
他のサイトなどを見て回っても、「タイムレンジャー」に関してはやはり物語とキャラのドラマ、また脚本家の作家性や心理という部分のみの言及に留まっている。
終盤に待ち受けている展開も含めほとんどの人は「構成」「哲学」「テーマ」といった「心理」に議論が帰着してしまい、誰も「このショットが凄い」といったことを論じない。
歴代戦隊で本作を一番好きな作品として、最高傑作として挙げる人も深くまで話を聞いていくと結局は上記してきた既存の言説に終始してしまう。
もちろんそれはそれで評価のあり方としては良いのかもしれないが、同時に「このままでいいのか?」とも私は思うし、そう思える人が出てくるべきである。
確かにサブカルチャーは各々が好きなように見て好きなように評価すれば良い、そこに絶対的な感想・批評の基準といったものはないし押し付けるつもりもない。
ただ、せっかく今はこれだけデジタル技術が世間に普及して一堂に見やすい時代になったのだから、これを活かさない手はないだろう。
そこで昨日「画面の運動」を軸として「現在」の作品として『未来戦隊タイムレンジャー』のパイロットを見てみたのだが、評価は以下の通りである。
1話評価:B(良作) 100点中70点
2話評価:A(名作) 100点中80点
このような評価になったわけだが、まず何が素晴らしいといって、たった5人の表層的な会話のみで画面が進んでしまう図太さであろう。
奇妙なのは1話目の段階だと主導権を握って戦いの中心にいるのはタイムピンク/ユウリなのに、2話では完全に現代人のタイムレッド/浅見竜也が主導権を握っていることだ。
コメントを見てみるとやはり永井大が「5人目参上」からの「けど、未来は変えられなくたって、自分たちの明日ぐらい変えようぜ」という台詞にファンは心動かされている。
だが、この台詞自体に特別なインパクトや感動があるわけではない、私は何度もこのシーンを見直しているがこのシーンのポイントは台詞それ自体にはない。
むしろここでの見所は竜也がそういって石をぶん投げて自信満々に言い放ったことで、それまでの鬱屈とした空気が雲散霧消してしまったことにある。
竜也がいない4人の状態だと空気が幾分緊張状態に包まれてしまい、特にドモンとアヤセが一触即発になるのだが、そんな危うい空気を竜也が一変させた。
特にアヤセの「明日を……変える…」というところでの呟きと驚きの表情など実によく、またユウリも何も言わずに頷いてクロノチェンジャーを竜也の左腕に装着する。
ここでの手振りも1話のなし崩しとは対照的なものであり、現代人の竜也が中心となり自らの意思でタイムレンジャーになる決意をすることで一気に推進力が増す。
そしてもう1つ、ここでの決意のシーンはそういう「本格的にタイムレンジャーが発足する」ことの嬉しさや安心感だけではなく、ある種の困惑と違和感もまた残る。
何故ならば竜也も含めて5人はあくまでリュウヤ隊長の采配とロンダーズファミリーの脱走によって偶然に出会っただけで、お互いの個人的事情や人となりを深くは知らない。
だが、「歴史をむやみに変えないように20世紀に留まり、ロンダーズファミリーを逮捕すること」だけを一応の公的動機とし、もう1つの私的動機として「明日を変える」が加わる。
このことによって初めて画面は動き出すのだが、確かに奇妙な形で立場が一緒になったように見えるが、彼ら5人は中盤〜終盤になるまでお互いの個人的事情に深く干渉はしない。
また、ここで更に注目しておきたいのは竜也が実家の跡継ぎを押し付けてくる父親から逃れ家族という柵から解放されることで初めて生き生きとしてくるということだ。
小林靖子がメインライターを務める作品は「ギンガマン」からそうであったが、一見人との繋がりや絆を大切にしているように見せておきながら、実はそれらが虚偽であるという前提で話がスタートする。
それこそ「ギンガマン」の第一章『伝説の刃』にしたってヒュウガの死は劇的に見せているが、これ自体が単純にリョウマを炎の戦士・ギンガレッドにするためのきっかけにしているにすぎない。
リョウマはヒュウガを喪失し憧れの対象を失うことによってかえって自分自身の思考の枠や「優しい人」から解放され奥底にある戦闘民族としての血が覚醒し躍動感が増すのである。
この構造は浅見竜也も同じであり、竜也たちがそれぞれに興味があるのはロンダーズファミリーの逮捕ではなく「明日を変える」ことでしかなく、仕事仲間といえど所詮赤の他人同士でしかない。
正にこれは上記の『ショート・カッツ』『マグノリア』が暴き出してみせた群像劇の虚構性に他ならず、それをスーパー戦隊シリーズの掟破りとして応用しているのである。
それは『鳥人戦隊ジェットマン』が一度「スーパー戦隊の死」を描き、そこから7年かけて『星獣戦隊ギンガマン』にて再生と復権を果たしたシリーズのニュースタンダードに対するさらなる反抗の意思だ。
つまり、小林靖子をはじめ本作の作り手は「ギンガマン」で完成した演出手法とニュースタンダード像自体も更に解体するところまでやってのけたのである、劇構造ではなく「画面の運動」として。
そのことを踏まえて見ると、例えば並ぶ位置も1話ではピンクがセンターだったにも関わらず2話ではレッドがセンターに立つといった捻りを入れ、更に変身後のキャラの個性の薄さもそれを意図したものだ。
私が「タイムレンジャー」に対してあまり感性を揺さぶられない理由の1つはこの変身後の色気(存在感)のなさにあり、ダブルベクターの質感の安っぽさといったら尋常ではない。
これは「ギンガマン」に出てくる星獣剣や「ゴーゴーファイブ」のライフバードのギミックの面白さと比べれば一目瞭然であり、変身後のアクションも実は凄いのだがあくまで物語の論理としてのみ機能する。
この徹底ぶりは「ジェットマン」「カーレンジャー」「メガレンジャー」以上の没個性気味であり、またロボアクションも最終的に倒さず圧縮冷凍だしCGも今見るととても安上がりだ。
だから地味は地味なのだが、変身前の登場人物たちの身振り手振りやドラマシーンでしっかり持たせてそれを「戦隊」として違和感なく成立させてしまう図々しさは目を見張るものがある。
今の、まあ正確には『百獣戦隊ガオレンジャー』(2001)以降のスーパー戦隊が喪失してしまったのはこうした野心的なところであり、根本的なところでどこか自粛を覚えてしまった。
もちろんそんな中でも良質のものは探せばあるのだが、それでもやはり作品としてのスーパー戦隊シリーズはこの「タイムレンジャー」までだという私の認識は変わってないし、今後も変わらない。
「ガオレンジャー」以降は完全な企業の力に汚染された「スーパー戦隊シリーズを名乗る別の何か」として見ているので、ギリギリ本作までがフィルム体験として私の感性を刺激しうるものだ。
パイロットを見た段階だけでも論じようと思えばこれだけのことがいえる筈なのだが、「タイムレンジャーが一番好きです」「最高傑作だと思ってます」という割には、出てくる意見の幅が狭く質も低い。
それは『侍戦隊シンケンジャー』(2009)に関しても同様であり、巷では何となく「シンケンジャーが歴代最高傑作です」という人は多いが、果たしてそれは本当であろうか?
80年代の戦隊黄金期の総決算として作られた『電撃戦隊チェンジマン』、80年代戦隊の死と変革を担った『鳥人戦隊ジェットマン』、そして平成戦隊の新たな原初的傑作として作られた『星獣戦隊ギンガマン』。
これら3作や本作「タイムレンジャー」よりも「シンケンジャー」が「現在」の作品として良いと、はっきり最高傑作だということを具体的に論証できた感想・批評はまだ出ていない。
今の時代はサブスクリプションがあるのだから、スーパー戦隊を「縦」の歴史としての相対評価ではなく、「横」の並びとしての絶対評価にする動きが出てきても良いだろう。
それこそDVDを用いた映画批評の実践をやってのけた加藤幹朗の「ブレードランナー論序説」のような新時代を象徴する実践的な批評が出てもおかしくはない。
そのような観点から改めて『未来戦隊タイムレンジャー』という作品を再評価し、生まれ変わらせることができるかどうかが今度の配信でスーパー戦隊ファンに問われている。