『行って帰ってきた烈車戦隊トッキュウジャー 夢の超トッキュウ7号』レビュー〜親世代がクリアできなかった課題は子供世代が解決する羽目になる〜
たまたまだが、『行って帰ってきた烈車戦隊トッキュウジャー 夢の超トッキュウ7号』がYouTubeにて配信されていたのでレビュー。
率直に申し上げるなら全く刺さらないF(駄作)だった、會川昇脚本という割には小林靖子が提示した世界観・物語などをきちんと継承できていないのではないか。
あるいは小林脚本の根底にあるものを勝手な自己解釈でやってしまったか、いずれにしてもコメント欄で褒められているような印象は私には全くない。
むしろ、小林靖子がギリギリのところで破綻しないように成立させていた「子供のなりきりヒーロー」というメタフィクション的な世界観を台無しにしてしまったようでもある。
本作の問題点の詳細について細かい寸評は控えよう、殆ど私が愛読しているGMS氏がお書きになっているレビューで私が言いたいことは言い尽くされている。
そのため、ここでは私なりに感じた『烈車戦隊トッキュウジャー』をはじめとする小林靖子メインライター担当作品が抱えている構造上・構成上の問題点をまとめたい。
本作に評価する意義があるとすればそこくらいであり、メタフィクションを得意とする會川脚本が逆説的に小林脚本の問題点を浮き彫りにした形となっている。
やり方は褒められたものではないとはいえ、反面教師という側面も含めて小林靖子脚本が抱えている『未来戦隊タイムレンジャー』以降の問題点をここでは指摘したい。
それは何かというと、「親世代がクリアできなかった課題は子供世代が解決する羽目になる」ということだ。
ファンの方々は呑気に大人トッキュウジャーと子供トッキュウジャーの共演を喜んでいるようだが、私に言わせればライトたちが本編でクリアできなかった課題を子供トッキュウジャーと一緒にやってるようにしか見えない。
というか、大人世代になったトッキュウジャーの尻拭いを子供世代、すなわち「過去の自分たち」にさせている時点で大人世代は恥ずかしいとか申し訳ないとかいう気持ちはないのだろうかと思ってしまう。
結局のところ、原作でシャドーラインの壊滅をきちんとせずに先送りしてしまったが故にその問題解決をこの「行って帰ってきた」でもしているように見えてしまうのは私だけだろうか?
これが同時に私が「ギンガマン」以外の小林靖子メインライター作品をA(名作)以上に高く評価できない理由もそこにあって、実は小林靖子メインライター作品で円満に全部を解決して大団円を迎えたのは『星獣戦隊ギンガマン』だけだ。
というか、歴代戦隊の中でも後腐れなくハッピーエンドの大団円をそれ相応の映像の迫力と物語上の双方から導き出せている作品がそもそも私が知る限りでは『電撃戦隊チェンジマン』『星獣戦隊ギンガマン』『魔法戦隊マジレンジャー』位である。
そしてその中で「敵組織と和解・共闘する」という要素を持ち込むことなく純粋な勧善懲悪として成り立たせた作品となると『星獣戦隊ギンガマン』しかないというのがもう何度も見直して思う私の結論だ。
だから、私は「ギンガマン」こそ「戦いのない平和な世界」を最短ルートで実現した最良の世界線という認識なのだが、それ以後の戦隊ではどうしても「戦いのない平和な世界」を実現するのに色々な痛みを伴っている。
分けても小林靖子メインライター作品の『未来戦隊タイムレンジャー』『侍戦隊シンケンジャー』『特命戦隊ゴーバスターズ』『烈車戦隊トッキュウジャー』という4作品の中で真の意味で最良だった世界線は1つもない。
例えば『未来戦隊タイムレンジャー』は「明日を変える」ことが作品のテーマにはなっているわけだが、本当の意味で「竜也たちは自分たちの明日を変えられた」ことは語られていないのである。
ここが「タイムレンジャー」の評価が難しいところで、時間SFの形式を活用していながら、実は「結果として誰もが幸せになれる万々歳の世界」は実現していない。
浅見親子の和解にしたってあくまで「少しだけ歩み寄った」程度だし、未来人4人が抱えている個人の問題に関しては何も根本的な解決を見ていないのである。
以前にこちらでも触れた通り、『未来戦隊タイムレンジャー』は「未来」と名がついていながら舞台は20世紀という「現在」あるいは未来人4人にとっての「過去」なのだ。
しかも、前作『救急戦隊ゴーゴーファイブ』までどこか根底の部分で信じられていた「仲間との絆」「団結」すら終盤で崩壊し、竜也と未来人4人が最後に力を合わせて戦ったのは単なる偶然でしかない。
実は『鳥人戦隊ジェットマン』以上に「戦隊」を「潰して死に追いやった」のがこの「タイムレンジャー」であり、だからこそ私にとっては本当にムカつくくらいに憎たらしい作品である。
それでありながら、小林靖子の何より憎らしいところはそういう残酷な物語にしていながらちゃんと「情」は大事にするし「救い」は残しているやらしさがあるから尚のことムカつく(笑)
井上敏樹が「エロティック」な作家だとするなら小林靖子は「やらしい」作家であり、どっちも私にとってはこの上なく憎らしく、でも同じくらいに魅力的な作家なのだ。
そして、「タイムレンジャー」以降で確立された小林脚本の作家性とでもいうべきものは『侍戦隊シンケンジャー』以降のメインライター作品でもやはり継承されている。
「シンケンジャー」では初期2作のどんでん返しとして「当主だと思われていた人物が実は偽物だった」というオチを終盤の部分で用意して崩していた。
要するに「ギンガ」「タイム」の導入で使われていた「レッドが正規戦士ではなく代理人」という「2人のレッド」をその根底にある「影武者」という正式な形として出したわけだ。
最もこの「影武者」自体に驚きがあったわけではなく、そこに歴代初の「女性レッド」「レッドが私闘に走ってしまう」「ラスボスを封印できず倒すしかない」といった要素もてんこ盛りだったわけだが。
しかし、「シンケンジャー」も結局のところ「ラスボスは倒した」が「戦いのない平和な世界」は実現していないし、侍たちはバラバラになっていくため真に団結したのは最終決戦のみである。
『特命戦隊ゴーバスターズ』に関してはいうまでもなく、1999年の時点ですでに主人公たちの肉親が死別して孤児となったところを戦士として育てられるところから始まった。
そして、戦いの上では最終的に仲間だったはずの陣が死んでしまい、平和は実現こそしたものの決して自分たちで勝ち取った平和とは言い難い微妙な結末に終わってしまう。
こういう流れがあった上で最後のメインライター作品の『烈車戦隊トッキュウジャー』だが、これも本当かどうかはわからないが最初はライトたちが子供に戻れず大人トッキュウジャーのままというビターエンドの予定だったらしい。
そうならなかったのはまあ子供向け番組として夢がなさすぎるという配慮だったのであろうが、私に言わせればそもそも「子供ヒーロー」として設定した時点で真の意味での「戦いのない平和な世界」は原作で実現しないだろうと諦めていた。
私が「トッキュウジャー」をB(良作)以上に評価していない一番の理由はそこであり、大人トッキュウジャーとか子供トッキュウジャーとかいうこと以上に、パイロットの時点で王道の世界線ではないことは明白だ。
そしてそういう世界線として設定してしまった以上、原作ではどうやってオチをつけたとしても「シャドーラインを全滅させた上での大団円」は実現しないであろうから、「行って帰ってきた」の世界線になってもおかしくはない。
「ギンガマン」含む5作品に共通していたのはまさにそこであり、「親世代がクリアできなかった課題は子供世代が解決する羽目になる」という小林脚本の構造はなぜかどの作品でも奇妙に一致している。
そして「子供世代が親世代の問題を解決」した最良の世界線こそ『星獣戦隊ギンガマン』であり、あの作品は三千年前の初代ギンガマンが先送りにしたバルバンとの戦いを百三十三代目が実現するロマン溢れる物語だ。
メインで活躍するのは実は「大人」よりも「子供」として位置付けられている者たちであり、大人であるはずのヒュウガやハヤテ、青山晴彦よりも子供っぽさを残したリョウマ・ヒカル・勇太少年が目立って活躍するのもそういう理由である。
だから「トッキュウジャー」は実のところ根底の構造は「ギンガマン」に酷似しているのだが(5人が同郷の幼馴染という点も共通している)、トッキュウジャーの5人はギンガマンと違って鍛え上げられた戦闘のプロではない。
いつ復活するかもわからず常に臨戦態勢で戦意をしっかり維持しておりヒーローとして完璧な銀河戦士と違い、港町に住む想像力だけが突出して優れた等身大の少年少女では初めから背負わされているハードルが違う。
だから小林靖子がメインを担当した原作では根本的な問題は何も解決しておらず、後日談でシャドーラインと戦い続けることになるのはおかしなことではなく必然だったといえよう。
しかもトッキュウジャーと明くんだけでは解決しないから車掌さんまでトッキュウ7号として駆り出している辺りにレインボーラインの人材不足がこれ以上ないまでに露呈していたことの証左である。
まあレインボーラインを取り仕切っているのがファンからも「外道」扱いされるウサギヘッドの総裁だからこうなってしまうのは仕方ないのかもしれないが、「蛇足」にしか感じられない。
最初見た時は何を意味しているのかが全く理解できなかったのだが、こうして再び見直して小林靖子メインライター作品の縦の歴史で俯瞰した時に初めて本作が何を示していたかが理解できた。
スーパー戦隊シリーズに限らないが、大体「封印」だの「決着を先送り」だのといった形で未解決のまま保留した問題は形を変えて再度向き合うか、子供世代にその課題が先送りされることになる。
そのことを會川脚本によって別角度から浮き彫りにしたという点だけは評価できるが、少なくとも決して綺麗な理想の物語ではないことはラストカットの共闘を見れば明らかだ。