作品に絶対的な成功パターンがないように「批評」にも絶対的な成功パターンはない!他者を動かす批評を生み出せる奴はそもそも変人である!「一貫性」という罠の恐ろしさ
私が書く文章・文体に影響を受けてスーパー戦隊に「入られた」方は私がこれまで書いてきたスーパー戦隊をはじめとする記事を読んで、あるいは実際に作品を視聴して以下のことを感じ取ったことはありませんか?
「あれ?ヒュウガ・クロサキの批評って感性的に一貫性に欠けるのでは?」
そう、これは私が今のnoteや前身となるはてなブログを書く前に8年に渡って経営していたホームページで感想・批評を書いた時にしばしば某巨大掲示板でもメールでも指摘されていたことです。
それこそ、昨年もどこかの誰かさんが「命の扱いが重い『鬼滅の刃』は貶すのに、命の扱いが軽い『ドラゴンボール』をあんなに褒めるのは二律背反である」と私のことを批判していました。
しかし、私が書いている数々の記事を読んでそのように思うこと自体が既にある種の「一貫性という罠」が潜んでいることを実は認識できていない人がほとんどです。
本日の記事はそういう意味で「教える」のではなく「問いかける」スタイルを取るので、論説文・評論文よりは随筆のスタイルで書かせていただきます。
お暇な方はどうぞ読んでやってください。
まず、これは是非とも覚えておいて欲しいのですが、凡そ「作品」に絶対的な成功パターンがないように「批評」にも絶対的な成功パターンは存在しません。
こう書くと「いや、絶対成功した理由はあるはずだ!」と言いたがる人が多数いますが、そういう人の大半は「成功した理由の9割は「運」と「タイミング」」であることに納得がいかないのです。
有名な言葉で「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」という言葉があって、何か大きなヒットや大勝利が社会的現象として起こる裏では神がかりのような「運」「タイミング」があります。
近年でいえば私が批判した『鬼滅の刃』がそうですが、あれがヒットした理由の大半は私に言わせれば「2020年コロナ禍という絶妙タイミングでアニメ化したから」以外にありません。
コロナ禍がなかったら世の中の誰も「鬼滅」なんて見てなかったでしょ?存在すら認識していなかったでしょう?
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