『百獣戦隊ガオレンジャー』(2001)という作品におけるパワーアニマルとオルグの関係性〜00年代のヒーローは「憑依型」か〜
『百獣戦隊ガオレンジャー』(2001)が現在配信されているので見ているが、良くも悪くも「ガオレンジャー」という作品はニチアサ枠のスーパー戦隊で最高視聴率8.8%という数字を叩き出している。
児童向けの分かりやすさや時の運といった外的要因がもちろん大きく影響しているが、改めて20年越しに見直して思うのは00年代のスーパー戦隊シリーズを読み解くキーワードは「憑依型」ではないかというとだ。
どういうことかというと、「ガオレンジャー」という作品においては戦士に選ばれた5人の変身前のキャラクターと変身後の能力・個性とが何も一致していない。
現に2話でイエローが「戦士になるつもりなら、今までの名前を捨てろ。俺はガオイエロー、おまえはガオレッド」と言っており、レッドが獣医であることなど何の意味も持たない。
これは前作「タイムレンジャー」までの反動で本作が「小難しい物語・ドラマを極力排する」という方針であるというだけではなく、映像として一定の説得力がある程度は生まれている。
獅子走が最初にガオライオンに選ばれるところからスタートするわけだが、では彼自身がカリスマ性・戦闘力・知力・体力その他で相応しいものを持っているかというと決してそうではない。
単純に他の誰よりも強いガオソウルという「魂」を持っていたから選ばれたに過ぎないのだが、それは同時に00年代のヒーローが変身後の性能頼りということでもあるだろう。
以前にも述べたとおり、「ガオレンジャー」という作品以後のスーパー戦隊の特徴として「身体性の喪失」があるわけだが、変身前の役者がピンチを生身で乗り切ることが少なくなる。
現に4話のブルーとブラックの回も鐘に閉じ込められたブルーをブラックが助けに行く時に、生身で可能な限り奮闘するのではなく変身してスーツアクターが全部を解決していた。
最後まで見て行くとわかると思うが、レッドたち5人の戦士は物語の中であくまで蚊帳の外に過ぎず、パワーアニマルからすればいつ見捨てても構わないような存在であることが示唆されている。
名前からもわかるように本作のパワーアニマルとオルグのベースは「シャーマニズム(霊の世界は物質界よりも上位にあり、物質界に影響を与えている)」だ。
ガオの戦士たちはあくまでパワーアニマルを現世に出現させるための都合のいい召喚士に過ぎず、だからガオレンジャーは等身大戦における強化形態などが与えられていない。
その証拠に、主題歌の歌詞にしてもあくまでパワーアニマルたちの苛烈な闘争本能を唄ったものであって、選ばれた5人の戦士たちのことを一切唄っていないのである。
これが似たモチーフの『星獣戦隊ギンガマン』の主題歌と比べて見るといいだろう、あの主題歌はギンガの森の戦士たちの高らかな精神性・ヒーロー性を歌い上げているが、ガオレンジャーはその逆だ。
OPのカットを見てみるとわかるが、「ギンガマン」の方では導入こそ星獣を大きく写しているが、途中でリョウマたち5人のカットに切り替わって最後はギンガマン5人を大きく前面に写して星獣たちは背景に追いやられている。
対して「ガオレンジャー」のカットはパワーアニマルの方が背景とは思えない程にデカデカと写っており、レッドたち5人の戦士はそれを邪魔しないよう申し訳程度に写っているとう寸法だ。
つまり何が言いたいかというと、本作からのスーパー戦隊においてはいわゆる「戦う理由」だの何だのといった内面のドラマを突き詰める作品はゼロではないにしてもほとんどなくなってくる。
何故ならば「タイムレンジャー」まででスーパー戦隊シリーズはドラマとしてやり切れることをやり尽くしてしまったわけであり、作劇においてはアイデアが頭打ちになってしまった印象が強い。
だからかは知らないが主人公たるレッドをはじめとする多くのキャラクターが少年漫画の主人公の様に内面が希薄化・幼稚化して直情径行な俗称「バカレッド」というやつが増えて行く。
その代わり何が起きるかというと、とにかく変身後のスーツ性能をひたすらに強化しパワーアップ合戦を繰り返すことを選ぶようになり、それはスポンサーにとっても都合のいいことだったに違いない。
実際、「ガオレンジャー」に出てくる役者5人は中には大成している人もいるものの、ほとんどが「ギンガマン」〜「タイムレンジャー」のオーディションに落ち続けた落第生が集められている。
強いて言えば追加戦士の玉山鉄二くらいはマシだが、初期の5人は本当に何でこんな役者を選んだのかと言いたくなるくらいゴミみたいな学芸会レベルの大根演技を披露していた。
しかし、それがどうして当時は批判されなかったのかというと答えは簡単であり、番組の見せたいものがあくまでパワーアニマルと変身後のガオレンジャーであって、変身前の5人の個性はどうでもいい。
そういう阿漕な拝金主義・商業主義に手を染めてしまった「ガオレンジャー」がどんな末路を辿ったのかは是非とも各自で配信を見ていただきたい、スーパー戦隊における悪い意味での転換期である。
「タイムレンジャー」までを1つの区切りとして何が大きく違うのかというと、ヒーローが悪に勝つ根拠が「心の強さ」でも「正義」でも何でもなく「持っている力が高スペックだから」に過ぎなくなったことだ。
ガオの戦士たちは決して気高い魂を持っているからではなく、とにかく喧しく雄叫びをあげパワーアニマルを召喚し、それでもどうしようもない場合は奇跡を起こして数の暴力で勝っていくのである。
「憑依型」と書いたのはそういう意味においてであって、要するに変身前に大したアクションができなくても、戦いの動機を問うことをしなくてもパワーアップアイテムか変身後の能力に依存すれば敵に勝ててしまう。
『ドラゴンボール』の魔人ブウ編で「超サイヤ人のバーゲンセール」などと言っていたが、スーパー戦隊においてもやはり「強化アイテム・新ロボットのバーゲンセール」がいよいよこの作品から本格化した。
パワーアニマルとオルグの関係性はシャーマニズムにおける「汚れなき崇高な魂」と「汚れまくっている邪気」という精神性における善悪の違いなのだが、だからと言って本作ではその正邪の心の違いがドラマとして描かれることはほとんどない。
ただただ神という存在に選ばれたもパワーアニマルたちがオルグよりも強い能力や補正を持っているから勝つのであり、厳しい選抜試験を潜り抜けたり心の試練を潜り抜けたり、あるいは団結力が高まったりといった要素を描く必要がなくなった。
少なくとも90年代のスーパー戦隊シリーズが「冬の時代」と呼ばれるほどに厳しい激動期だった中でも、それに抗う様にエネルギーを大きく切り替えて「真のヒーローになるまで」の物語を1年かけて描ことは「ガオレンジャー」においてはしていない。
とにかく便利でハイテクなアイテムに頼ってマネーゲームの様に巨額を投じれば誰でもが勝てる様な仕組みができていった訳であり、それはまさにIT革命を経て徐々にデジタル社会ができていく2001年当時の世相とも重なるところがある。
表面上の勧善懲悪のフォーマットだけは巧妙に維持しつつ、ヒーローをとにかく「変身アイテムに依存した憑依型」にすることでシリーズそのものの価値を希釈してしまったのが本作だといえるだろう。
その癖玩具販促の手法だけは無限にあれやこれや湧き出てくるものだから始末に負えないし、やはりどんなに擁護しようとしても「ガオ」以降のスーパー戦隊は明らかに「タイム」までとは違うものになってしまっている。
だから、00年代のヒーロー物がどう変遷していったかを真面目に論じようとしても、スーパー戦隊に関しては長年言語化できずに苦しんでしまうのである、作り手自身がそこに対して思考停止しているのだから。
ガワだけを目新しくしても、根幹の部分をそもそもきちんと定めなかったらどうなるかに関して作り手が無定見・無責任になってしまった結果が「ガオ」以降の流れであるとようやくわかり始めた。
そういう視点で見ていくとこの「ガオレンジャー」、心から楽しめた人がどれだけいるのだろうか?「愛の為の金」ではなく「金の為の愛」に成り代わってしまったというのに。
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