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『電子戦隊デンジマン』第1話『超要塞へ急行せよ』
◾️第1話『超要塞へ急行せよ』
(脚本:上原正三 演出:竹本弘一)
導入
「今から三千年も昔、太陽系外宇宙から飛行物体が飛来した。デンジ星から送り込まれたデンジランドである」
このナレーションと共に始まるスーパー戦隊シリーズ4作目であるが、本作は「スーパー戦隊の基礎土台を完成させた古典的名作」と言われている。
実際その評価自体は間違ってはいないだろう、先日のこちらの記事でちょうど「ブンブンジャー」の「原点回帰」の意味について触れたのだが、その記事でこのような文言があったので再度引用する。
特撮に興味がない層は『戦隊ヒーロー』をこうイメージするだろう。
“正義感の強い5人の若者が、悪の組織が送り出す「今週の怪人」を倒して、締めに巨大ロボで戦う1話完結の物語”
この文章で書かれている「パブリックイメージとしてのスーパー戦隊」の概念を確立したのが本作「デンジマン」と言われるが、それはおそらく形式(映像演出)と意味(脚本)の双方において1つの完成を迎えたということだろう。
即ち、今日我々が目にするところの「スーパー戦隊」はこの「デンジマン」に代表される、映画で言うところの「古典的デクパージュ」とでもいうべき文法・文体にその源泉を求めることができよう。
そしてその中でも『電子戦隊デンジマン』は後継作品で発展させていく諸要素が宝箱のようにぎっしり詰まっているという点において、紛れもなくスーパー戦隊の歴史において重要な一作である。
このことを念頭において、改めて今日ある「スーパー戦隊の文体(語法文法)」がどのように形成されているのか、またそれがいかに今日においても古びないものなのかを可能な限り言語化してみよう。
上原正三×竹本弘一の文体
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最初に注目しておきたいのは上原正三脚本と竹本弘一演出が作り上げた黎明期のスーパー戦隊シリーズの文体がどういうものであるか?ということだ。
まず上原正三脚本に関しては彼が独自の作家性を知らしめることとなった『帰ってきたウルトラマン』の「怪獣使いと少年」から受け手の間でその作風が様々に論じられてきた。
殊更に指摘されているのは「沖縄出身者としてのルーツ」であり、幼少期の根深い戦争体験・差別のトラウマが彼の作風の源泉になっているというものであり、似たようなことは金城哲夫脚本にも言える。
仮想敵として置いていたのは全てアメリカであり、スーパー戦隊だけを見ても黒十字軍・クライム・エゴス・ベイダー一族・ブラックマグマと全てが「巨大な敵国家」として設定されているのもそういうことだ。
スーパー戦隊シリーズが巨大な悪の組織に5人が力を合わせて立ち向かうという集団ヒーローの雛形になり得た理由の1つは上原正三の作家性に基づくものであることはいうまでもない。
次に竹本弘一監督だが、特に『仮面ライダー』第1話からそうであるように、竹本監督の特徴は「カッティング・イン・アクション」と「ジャンプ・カット」によって「画面で語る」ということである。
本作にもその文体は現れているのだが、まだ撮影・編集の技法が充実していなかった時代の彼のアクションはとにかく疾走するシーンで細かいカット割を繋ぐことでアクションのスピーディーさを体現していた。
『仮面ライダー』『秘密戦隊ゴレンジャー』の1話を見ればわかるが、怪人たちが走っているカットで急に数メートル先へジャンプしていることがあるが、これはまだスピード感の演出の技法が確立されいないためである。
蜘蛛男や黄金仮面が走るところで使われているが、なるべくセリフではなく映像によってテンポよくスムーズに語るという初期の東映特撮の文体を構築するのに大きく貢献したのが竹本弘一の演出であろう。
今日では様々な撮影技法が発達しているのが、そんな中でも彼が確立した演出の技法・感性が古びておらず今日見ても尚受け手の感性を刺激し得るのは彼の映像の文体がそれだけ強固で明確だからである。
作家性・思想性が強めの脚本家が作る意味(劇作)とスピーディーにテンポよく撮りたいという監督が作る形式(映像)の掛け合わせによって、「ゴレンジャー」〜「サンバルカン」までの初期戦隊のパイロットは作られていた。
後年、『星獣戦隊ギンガマン』で頭角を現し『仮面ライダーアギト』以降で「平成ライダーパイロット請負人」として名を馳せていく田崎竜太監督が語られるが、黎明期のスーパー戦隊パイロット請負人として是非竹本弘一も取り上げておきたい。
この2人が作り上げる才能の掛け算によってスーパー戦隊の「古典的デクパージュ」が形成されていくわけだが、『電子戦隊デンジマン』はそれが「シリーズそのものの文体の基礎土台」になったという意味でファンからは「戦隊の基礎土台」と言われる。
私がシリーズ三大傑作として挙げている『電撃戦隊チェンジマン』『鳥人戦隊ジェットマン』『星獣戦隊ギンガマン』もやはり「ゴレンジャー」〜「サンバルカン」までの文体に対するリスペクト・オマージュが根幹にあるのが大きいのかもしれない。
しかもこの初期作品で作り上げられた文体は「古典的」とは書いたが決して「過去」ではなく「現在」にも通ずるだけの普遍性を持ち得るものであり、ここに対する帰属意識が作品から感じられるかどうかは作品を見れば一発でわかる。
昨年の『王様戦隊キングオージャー』にはこのスーパー戦隊の「古典的デクパージュ」に対するリスペクトを完全に欠いており、最新の技術だけで名作が作れるなどという自堕落な意識があのつまらない画面作りに繋がったのだ。
「デンジマン」独自の文体
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上記を踏まえて「デンジマン」ならではの文体を見ていくことにするが、まず1話を見た限りで気になったのは冒頭や締めだけならともかく、アクションシーンにまでナレーションが多用されていることだ。
「デンジマンは100mを3秒で走ることができる」
「デンジマンは150mのジャンプ力がある」
「デンジスコープは異次元空間をも透視できる電子の目である」
これらに関しては今日見るとやはり「無駄な饒舌」であり、映像で十分伝わっていることをなぜわざわざナレーションに説明させるのかがわからない、端的に言ってただのノイズである。
もちろん考えられる理由としては「デンジ星の科学力」を効果的に伝える為にという見る側への配慮のつもりであろうし、子供向け作品として程度を落として語らねばなるまいというのもあるだろう。
「デンジマン」が他の「ゴレンジャー」「ジャッカー」「バトル」「サンバルカン」と大きく異なっているポイントとしては「力の源」が「地球由来」ではなく「異星由来」であることが挙げられる。
洗練されたデンジマンの5人のスーツ、偵察用のデンジマシーンと戦場に向かい迎撃するためのデンジタイガーと巨大戦用のダイデンジン、そして変身者にデンジ星の科学力を全て付与するデンジリング。
これらの技術が既に三千年前に作られており、赤城一平たち主人公側が歴代発の一般人の素人という設定にも関わらずベーダー一族と遜色なく戦えているのは何よりもこの強大な科学力があってこそである。
そのデンジ星の科学力の強大さを伝える為にはこの当時の文体としてはアクションシーンの運動だけでは足りないからナレーションによって補足説明を促しているとも考えられるであろう。
同じことはベーダー一族にも言えて、「ベーダー怪物は体内の細胞体を自由にコントロールして」のくだりも本来であれば説明の必要はないのだが、これがあることで子供にベーダー一族の脅威を伝わりやすくする目的がある。
初期のシリーズの中でも「映像」ではなく「言葉」で伝えることが増えているのは本作が「SF」としての情報量が「ゴレンジャー」よりも明らかに増えたからであり、それが作風にも重厚感を与えているだろう。
とはいえ、やはり今見直すと「基礎土台」になっているのはそうなのだが、映像全体のリズムやパイロット単品の完成度は決してクオリティーが高いとまでは言えない。
全体的にカット割や繋ぎ方が不自然な箇所があるし(特に各メンバーをアイシーが招集してから集まるまでに二度手間みたいになっている作りなど)、言葉で説明し過ぎているのはこの当時の限界も感じられる。
アクションシーンそのものは悪くなかったし、ダイデンジンのデザインなども含めて非常に良くできているだけに、もう少し物語をスムーズに流していく演出手法に工夫は欲しかったところだ。
ただ、本作の場合は歴代発の異星由来の力の源や歴代唯一の犬司令官であるなど、王道的な作りに見せておきながら実は形式の上でとても新しいことに挑戦した一作である以上、どうしても説明的にならざるを得ないのだろうか。
なのでこの第一話だけを見るならば単独の完成度はB(良作)100点満点中70点ということになるのだが、これらは決して後年の作品群が洗練されているからだけではない。
『秘密戦隊ゴレンジャー』の1話は今見直しても十分に完成度が高くS(傑作)の評価を与えられるのだが、その意味で本作の文体は立ち上がりの段階としては洗練されているとは言えないだろう。
5人のキャラクターもこの段階では変身前・変身後共に書き分けが十分になされているとはいえないので、2話以降に期待するとして、この1話の段階で注目すべきはアイシーがデンジマン以外の者たちをベーダー一族の襲撃から守っていないことだ。
実はここにアイシーの異星出身ならではの感性が描かれており、それが終盤の展開にて露呈することになるわけだが、これに関しては是非とも最終回の語りに取っておくとしよう。
後続作品にて継承された要素
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「スーパー戦隊の基礎土台を完成させた古典的名作」と言われるだけあって、本作には後継作品へ継承された要素があるので、ここも整理しておこうか。
変形巨大ロボ→前作『バトルフィーバーJ』から次作『太陽戦隊サンバルカン』以降へ継承
頭に煌めくデンジメカ→『超電子バイオマン』『電磁戦隊メガレンジャー』へ継承
戦闘のプロではなく一般人が選ばれる→『大戦隊ゴーグルV』以降数多の作品が継承
戦いを拒否する戦士がいる→『超電子バイオマン』『鳥人戦隊ジェットマン』『激走戦隊カーレンジャー』『五星戦隊ダイレンジャー』『電磁戦隊メガレンジャー』『暴太郎戦隊ドンブラザーズ』あたりへ継承
三千年越しの宿敵との戦い→『星獣戦隊ギンガマン』が継承
力の源が異星由来→『超電子バイオマン』以降数多の作品が継承
大まかに述べるとこの辺りだが、わけても大きいのは3つ目と4つ目であり、まず本作は上原・竹本コンビが手がけた戦隊の中で唯一の「素人戦隊」であるということだ。
「ゴレンジャー」「ジャッカー」「バトルフィーバー」「サンバルカン」は鍛え上げられたプロ級の戦士たちが選ばれているが、本作は歴代発の一般人戦隊である。
だからこそ4つ目に挙げている要素として、宿命を拒否する戦士という要素が成立するわけだが、ここも本作で細かい仕掛けの1つとして挙げられるであろう。
プロフェッショナルが選ばれる戦隊だと成立しにくいわけであるが、実はこういう要素を先んじて仕掛けていたというのも本作の先見の明であるといえる。
まあここら辺の要素は前年のアニメ『機動戦士ガンダム』がやっていたことなので、その影響をいち早くスーパー戦隊シリーズが受けて取り入れたと見ることも可能である。
特にアムロ・レイは「戦いの宿命を拒否する主人公」のはしりとも言えるところがあった(実際「2度とガンダムなんかに乗ってやるものか!」なんて言う主人公は今見ても相当強烈)。
またダイデンジンやデンジタイガーのトリコロールカラーのデザインもガンダムに影響を受けたものだとはしばしば指摘されている。
そういう意味もあって、本作は同時代性の影響は当然にありながらも、核にあるものは外していないので、この辺りが戦隊シリーズの強みであるといえるだろう。