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「覚える」ことが重要ではなく「使いこなす」ことこそが重要である

私は勉強でも仕事でもそうだが、実はメモというメモをほとんど使わない。
仮に使ったとしても、一時的なものばかりで、終わってしまったらゴミ箱へさっさと捨ててしまうので子供の頃はよく変人扱いされていた。
それでいて、ちゃんと然るべき場面で「ああこれか」とサッと引き出して終わらせるというやり方をしていたので、いわゆる「暗記」というやつが小さい頃から苦手である。
「記憶力がいい」なんて言われるが、単に覚えるだけなら世の中のどこにでもそういうタイプはいるものだ、「教科書の何ページにこんなことが書かれていた」みたいなね。

私の地元では小中の9年間、いわゆる「宅習」などという「その日勉強したことをノートの1〜2ページにわたって書いて提出する」文化があったのだが、今考えればあんなの何の意味もない。
何やら「自分で考える力をつけさせる」ことが目的だったらしいが、ぶっちゃけ私からすればそれは建前で本当は「頑張って勉強させてる感を演出しているだけ」じゃないのか?
あるいは、先生たちが児童・生徒にそういう宿題の出し方をすることでいい先生だと思われたいという教師の自己陶酔のようなものでもあるのではないかと今にして思う。
要は「メモすること」が目的化していて、本当の目的である「その日習ったことを頭の中に定着させて学力を伸ばすこと」に全く結びついていない。

大学時代に実は塾講師・家庭教師のバイトを経験したことがあるが、私は敢えて教え子たちにはメモを取らせず、勉強の仕方だけで教えて後は自分でやらせてみた。
面白いもので、教師というのは生徒に「あれ教えなきゃ。これ教えなきゃ」とやたら教え仕込もうとするが、実はそんなことしなくても子供はその気になったら自発的に勉強する
そうすると、わかるところではサッと筆が動くのだが、わからないところになると筆が止まるし、もっと言えばそういう時は「その問題の何が分かっていないのか?」が分かってないことが多いのだ。
これが昔の暗記型詰め込み教育の欠点であり、昔はとにかく「書いて書いて覚えまくれ」だったのだが、ほとんどの生徒は「暗記すること」で精一杯であり、根幹の部分の何たるかをきちんと抑えていない

暗記自体が悪いわけではない、基礎基本を徹底して覚える段階では反復が必要なのでとにかく反復して体に叩き込むことは重要である。
しかし、それを過ぎた段階では本質を押さえながら勉強することが大事になるのであり、メモを取ることではなく習ったことの中で「何が根幹にあるのか?」をきちんと掴んで自分の中に育むことが重要なのだ。
結局のところどれだけ数をこなしたところで、その演習の中でエッセンスとなる部分についてきちんと頭の中に叩き込んでおかないと、次に類似の問題や応用・発展の問題をやった時にすぐに間違えてしまう。
枝葉のどうでもいい情報ばかりを記憶することに囚われているから、肝腎要の本質をいつまでも捉えきれずに、同じところばかりぐるぐる回って先へ進めないという空回りが起きる。

例えば、数学の解の公式や英語の時制について、その概念を理解して自ら導出できるかというと、上位陣は自分で言語化できるだろうが、偏差値50辺りの真ん中の人たちはどうだろうか?
英語の助動詞であるcanとmayの違いについて、あるいは時制でいうと現在形と現在進行形の違いについて、どれだけの生徒が本質をきちんと理解した上で説明できるだろうか?

つまり、「根幹=本質」を頭の中に叩き込んで各教科のOSを自分の中に設計し、その中に無駄なく枝葉をつけてネットワークを形成していくことが勉強本来の意義なのだ。
それができないといつまで経っても学力は向上しないし、逆にいえば上位の難関大学と呼ばれるようなところに行く人はそういうことがきちんとできる人たちである。
そしてそれは仕事においても同じであり、仕事でも「どうしても覚えておかないといけないもの」だけは一時的にメモしておいて、用が済んだら即座に捨てて無駄に詰め込まない
だから机の周りには余計なものを置かないよう常に整理整頓し、すっきりした状態でいつでも仕事ができるように脳に詰め込む物量を敢えて少なくしておくのだ。

そのため、私は定期テストでは敢えて点数をそんなに多く取らず、実力テストや模擬試験のような「普段の学力が問われるテスト」の方がよっぽど出来が良かった。
まあムラっけがあり過ぎて父からも母からもその欠点を指摘されていたのだが、それでもどうでもいい枝葉の情報まで詰め込むなんて非効率でめんどくさいことをしたくなかったのである。
FES理論×ドラゴン桜でやっていた「勉強法」の性格診断をやったところ、私はいわゆる「弁別拡散型」であった。

特に「合理的な勉強がしたい。逆に合理的じゃない勉強はしたくない」「言葉の定義や論理的な説明など、きちんと納得できる結論が出ないとそれを受け入れたくないタイプ」が非常に的を射ている。
だからケアレスミスもあるのだが、その分自分がとことんまでハマった科目であれば狂ったように遊び感覚で勉強して覚えるし、仕事もそんな風にして自分なりの攻略法を見つけたらすぐにそれを実践しているのだ。
もちろんこれはあくまで「私に合ったやり方」であって再現性はないから、人によっては保全型のように「着実に蓄積していくことで覚えていきます」というタイプの人もいるだろう。
私の場合は「人間なんて忘れる生き物である」と教わってから「詰め込まなくてもいい勉強法」を教わって体得し、それが今の仕事でも私生活でも生かされている。

勉強も仕事も遊びもそうだが、全ての物事において「覚える」ことは大して重要ではなく、「使いこなす」ことこそが真に重要なのである。

そこで最初に話を戻すが、私は宅習をサボってた人間だったから先生にはよく怒られたし、いわゆるメガネの学級委員や優等生のようなガリ勉タイプとは相性が本当に悪かった。
だけど「でも試験ではそれなりに結果出してるんだからそれでいいじゃん。どうせ勉強したことなんてテストの結果で出せればそれが全てでしょ」というと黙ってしまう。
ただ、高校に入るとそれでは通用しないから流石にやり方も変えた部分はあるが、それでも根本的に暗記が苦手で詰め込み大嫌いなのは昔から何も変わっていない。
勉強でも仕事でもそうだが、入試問題を解くことも仕事で売り上げを出すことも共通しているのは「目の前の状況に対して本質を見抜いた上で最適解を出すこと」である。

だから自分が詰め込んだこと、メモしたこと、準備したことを出す発表会では断じてない、大事なのはあくまで相手が求めるニーズに対する問題解決なのだ。
答えがすでに決められている大学入試も顧客のニーズを読み取ってそれに適切な解決策を提案する仕事も、一見無関係のようでいて根底の部分は共通している。
なぜ勉強するのかというと、そういう「考え方=脳のOS」の基礎基本を形成するためであって、そこを見誤ってしまうと「なぜ勉強しなければならないのか?」などと言い出す人が出てくるのだ。
確かに社会に出たら「学歴=肩書き」は無関係だが、「学力=本質を見抜いて最適解を導き出す力」は学校であろうと社会であろうと共通で求められる

以前に紹介した軍神が国語ドリルをやらせて売り上げを爆増させたというのも結局はそういうことであり、国語ドリルを通して本当の意味での「学力」を身につけさせていた。
サトマイ風にいう「知的体幹」なのだが、それを若い頃にやった人とそうでない人では大人になってから大きな差となって現れる。
ましてやこれからは勉強なんてしなくても全部AIが暗記作業や知識のデータベースは担ってくれるから、人間は非効率な暗記なんてしなくてもいい。
その代わり、その知識・知恵を独創的に使いこなすセンスと才能が求められるわけで、それをしない人間は今後淘汰されていくから気をつけておこう。

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