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漫画『キン肉マン』の「友情パワー」はもう既に耐用年数が過ぎている〜教条主義的な道徳としての「友情」とチームヒーロー〜

映画に限らず、漫画・アニメ・特撮・テレビドラマ・音楽等々あらゆるサブカルチャーには作られた時代の刻印というものが穿たれており、「時の試練」を経ていく宿命にある
当然ながら時代に応じて常に感想・批評のあり方も変容していくわけであり、だからこそ常に「現在」としてその作品を見ることが大切であると私は思う。
ただし、それは決して「今現在の価値観で作品を裁断すること」ではなく「作品を見て衝撃を受ける体験」を素直に論じ、表層にある豊かな細部を肯定することである。
そんな中で常々新しい批評や評価の文脈が形成されていくことが真の名作・傑作の条件なのだが、一方で既に耐用年数が過ぎて今とても見れたものでは無い作品も存在するものだ。

その内の1つが私にとっては『キン肉マン』という作品であり、兄がとても好きでよく読んでいたので私も全巻読んだことがあるが、どうしても根幹の部分で自分に合わなかった
もちろんいい部分は沢山あるし、バトルの表現の幅も増えたし、個性豊かなキャラクターも沢山いて車田漫画とはまた違う新機軸を数々打ち出した作品ではあると思う。
しかし、やはり大人になるにつれて「これはきつい」とか「これはもう今の時代には通用しないな」と思うこともあったのだが、その中で1つだけどうしても譲れないものがあった。
それがいわゆる「友情」という言葉や劇中の表現であり、私はゆでたまご先生が作品の中で提唱する「友情パワー」のあり方が最初に読んだ時からどうしても好きにはなれない。

どうも『キン肉マン』という作品で提唱されている「友情パワー」のあり方って「友を想う心がある奴が強く、そうじゃ無い奴は弱い」といった「友達100人できるかな?」の前提で描かれている。
もっとも、『キン肉マン』に限らず、昭和時代の「友情」「絆」のあり方はそういうものが主流であり、私は小さい頃からそういうものに対して違和感を覚えていた。
友情や絆といったもの自体が嫌いなのではなく、それを絶対的な道徳とし押し付けるような友情や絆のあり方といったものが私は昔から大嫌いだったし、それは今でも変わらない。
もちろん私にだって「友達」「親友」と呼べる人はいるし、自分を高めてくれる友の存在は大事にしているが、それはあくまで「結果」であって「目的」ではないのだ。

ゆでたまご先生はその「友情」にもいろんな形があるとして表現しているのだが、それを安易に戦闘力に数値化して友情パワーさえあればどんな強敵にも打ち勝つみたいなあり方が私は好きではない。
寄り添うことが友情である時もあれば、突き放して自立を促すことが友情という場合もある、それを幅広く描いていることはいいのだが、じゃあ「友情」がなければ勝てないのか?という話になる。
確かに私はスーパー戦隊シリーズで「チーム」に憧れを持って生きているからそれが悪いとはいわないが、同時に孤独に何かを突き詰めてストイックに自分と向き合うことも大切だと私は思う。
友情や絆は「美徳」ではあっても「道徳」ではなく「有限」であって「無限」ではないから、いつか無くなってしまうものであるというのが幼少期からの私の考えであった。

今思えば小さい頃からそんなことを思っていた私はマセガキというか捻くれた子供ではあったと思うが、だからこそ私は『ドラゴンボール』が提唱する鳥山明先生の穏やかなドライさ、あるいはドライな穏やかさが好きである。
鳥山先生がいった「悟空に友情はない」という発言をファンはよく取り沙汰するが、あれは半分照れ隠しでありわざと誤解させるような言い方をしているだけで、悟空にだって「友情」はある

というか「友情」がなかったら悟空がクリリンの死に激怒したり、それで超サイヤ人の覚醒したりということはないわけだし、戦っていくうちに徐々に気が合っていくこともあるだろう。
しかし、悟空は決して「友情」を絶対視しない、ただ一緒に何かをやっていく過程で「気が合う」「波長が合う」「価値観が合う」から「友達」へ、そしてそれが深まって「親友」となっていく

『ドラゴンボール』においては、基本的に仲間の絆や友情といったチームヒーローにありがちな理屈がバトルにおいて重要な契機となったことはない
ピッコロ大魔王戦からして、それに太刀打ちできるのは超聖水によって潜在能力を解放し強くなった孫悟空だけであり、天津飯や亀仙人はこの時既にインフレに置いていかれた。
ナッパ戦でも仲間のほとんどが力を合わせても勝てず、界王拳と元気玉を習得し大幅に強化された悟空が帰ってくるまで逆転することはできていない。
ベジータ戦は確かに総力戦だったが、あれはベジータ自身が半分墓穴を掘り、かなりゴリゴリのところまで削って何とか追い払っただけで、完全勝利ではないのである。

この点に関してはそれこそ東映アニメ版の『ゲッターロボ』と漫画版『ゲッターロボ』の違いにもなっていて、アニメ版と違って漫画版は最初から竜馬・隼人・武蔵の3人が揃っていたわけではない
最初の時はイーグル号だけで撃退していたし、隼人が初めて乗った時も早乙女博士と3人で乗っていて、まともに操縦できていたのは竜馬だけである。
そして武蔵が加わってからも3人で戦った試しはほとんどなく、武蔵の最期に至っては完全に1人という形にすることで、安易なチームヒーローの様式美には落とし込んでいない。
この辺りは優等生的なあり方が根本にある上原正三や雪室俊一ら当時のアニメスタッフと、その真逆のとことんまで破天荒な荒くれ者のチームにした石川賢の作家性の違いであろう。

スーパー戦隊シリーズに話を移すと、戦隊の本質を「チームワーク」「団結」だと思い込んでいるファンは多数いるが、個人個人が精神的に自立していることもまた1つの表現方法である
現在配信中の作品で『未来戦隊タイムレンジャー』と『炎神戦隊ゴーオンジャー』を比較するとわかりやすいが、いかにも多くのファンが想像しそうな「戦隊」を描いているのは「ゴーオンジャー」だ。
打ち解けたら何だかんだ仲良しこよし、敵が現れたら力を合わせてお約束の「みんなでGO」で、基本的にはそつなく「チームワーク」「団結」なるものを表現している
しかし「タイムレンジャー」はそれに反旗を翻すようにして、未成熟な若者たちが利害の一致でチームを組んで戦っているに過ぎず、どこかで「団結」を拒んでいる節がある

何が言いたいかというと、チームワークにしろ友情にしろ絆にしろ団結にしろ、「力を合わせて何か大きなことを成し遂げる」ことは「手段」であって「目的」ではない
方法の1つではあったとしても、それが絶対ではないし、それを押し付けてしまうともはやただのファシズムでしかなく、行き着く先は右向け右の軍国主義ではなかろうか。

この動画でヒカルが「グループの中でももっともっと上を目指したい人もいれば、安定してもっと休みが欲しいという人もいる」ということを言っている。
そして「一人だったら全部自分の責任でできるが、グループだったら絶対温度感が変わってくるし、スタートが同じモチベーションでも10年後に同じモチベとは限らない」とも。

そう、人間というものは常に環境や時間とともに価値観も生き方も変わっていくし、なんぼ他者と関わりながら生きていても最後は自分だけの生活が大事になってくる。
ましてやヒカルはチームネクステの解散やメンバーの脱退を何度も経験しているし、カジサックもそれこそつい昨日中野が脱退すると発表していた。

中野に至っては半分嫌われるのも覚悟の上でストレートに「チームに対して愛はない」「嘘をついてやっていた」ということを言っている。
そう、チームで何かをやっていく上で必ずしも友情や絆なんてものは形成される必要はない、要は仕事さえきちんとこなせばそれでいいのだから。

少年漫画や子供向けのアニメ・特撮を見る上でネックになるのは、決して絶対視も神格化もされるべきではない価値観が特権化されてしまうことである。
『キン肉マン』ならば正に「友情」がそうであり、友情自体があるのは構わないが、それを特権化してしまうと大人になって見直した時に子供騙しにしかならない。
「フィクションだから」で誤魔化しが効かない部分があるわけであり、それが今回改めて読み直して合わないと感じてしまった部分である。
友情パワーはもはや普遍性がなく耐用年数が過ぎ去ってしまっている、これはもう確信に近いレベルで再読してはっきりと私の中で言語化できたことだ。

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