東直子と"童謡性"/東直子『青卵』評
本歌集を読んではじめに目に付いたのは、リフレインの多さと特徴的な韻律であった。
Ⅰから引いた。この二首に共通して見られるのは、リフレイン・会話体・歌意の奔放さの三点であると思われる。こういった特徴から想起されるのは、童謡の歌詞である。
だいいち、童謡は歌であるため、(音楽的な意味での)モチーフの影響によって繰り返し単位が発生する。さらに、子ども向けのものがほとんど(すべて?)であり、親しみやすさのためか、会話体が使用されている。意味に関しても、歌詞の中に明確な一貫性が必要なわけではないだろう。
このように、東直子の短歌には童謡との類似点が見られる。ただ、前述した三つの特徴だけでは、短歌自体が童謡と類似しているのであって、東直子の短歌が童謡に類似しているわけではない、といった主張もできる。しかし、ここでは東直子は自身の文体の童謡性に自覚的であり、自らそちらに寄せていっている節があると主張したい。
〈もういいかい〉はかくれんぼを想起させるし、先生や水やり当番といったような語彙からは小学生のイメージが浮かぶ。メタ的な思考にはなるが、書き手として短歌に向き合うとき、扱う(文学的な意味での)モチーフを定めるのは、他でもなく書き手自身である。このようなモチーフを扱う短歌を歌集中に散りばめることで、東直子は自身の歌の童謡性をより加速させているように思える。
加えて、助詞の省略や破格も東直子の短歌ではしばしば見られる。これらが文体の幼児性に寄与するのは、第一回U-25短歌選手権準優勝の永井貴志『たそがれのいじわる』を読めば明らかである。一首だけ引いておく。
永井貴志の例は極端なものであるが、東直子の場合であっても、モチーフや文法に幼さを想起させるものを使用しているのは、自身の短歌の童謡性に自覚的であり、その効果を引き出そうとしていることに他ならないのではないか。
さて、ここまで東直子の短歌の童謡性について述べてきたが、童謡には似つかわしくないような、(対比的に)大人な短歌ももちろん本歌集には掲載されている。
背景に深い人間関係を感じさせる歌をいくつか引いた。こういった短歌は、幼さとは無縁であるように感じる。しかし、ここで、先ほど引用した『赤とんぼ』の歌詞に立ち返りたい。
歌詞の(詩でいうところの)第三連に注目したい。童謡の歌詞にはときに童謡とは思えないような、世の中の深いところに触れようとする歌詞が現れる。童謡にまつわる怖い話などは誰しも生きているうちに一度は聞いたことがあるだろう。幼児性を感じさせるコンテクストの中に深い内容を盛り込むというこの手法には、対比的にその内容の印象をより深くする効果が期待できる。では、東直子は本歌集においてそれにも自覚的だったのだろうか?