距離感/永井亘『空間における殺人の再現』評

永井亘『空間における殺人の再現』を読んだ。本歌集において徹底されているのは、言葉同士の距離感を操作することであるように思われる。

目の奥をリモコンでザッピングして続いては降雨を笑わせた

サーフィンの夜

ザッピングとは、テレビを視聴している際に、リモコンを操作してチャンネルをしきりに切り替える行為のことをさす単語である。初句『目の奥を』と読んだ段階では第二句、第三句で『リモコンでザッピングして』と展開されるなんてまさか思わない。また、それ以降でさらに『降雨を笑わせた』とさらなる裏切りが待っている。意味内容で読解するにはあまりに難解すぎるが、それぞれの言葉同士の距離感のようなものを考えると、この歌は楽しく読める。『目の奥』のビジョン感(この
ビジョンは視界という意味ではなく表示機器の意味)を考えれば、『ザッピング』という単語は思っているよりも近い位置にいるし、『ザッピング』というチャンネルを自身の意志で頻繁に切り替える行為と『笑わせた』という自分以外のものの表情(視覚情報)を使役させている感も、思っているよりも近いところにいると思う。永井亘の短歌は、この言葉同士の距離感の制御が絶妙である。

瞳孔が住所のように遠くから届く日付を覚えておいて

サーフィンの夜

この歌では、『住所』『届く』という近いところにいる単語同士を『住所のように遠くから届く』と意味が通らない語順にされることで、思っているよりも言葉同士の距離が遠く感じる。

微笑みが光の欠如だとしても木々から遠い窓は続くよ

天使の入江

『微笑み』の微の字と『欠如』の意外と近いところにある感じや、第三句『だとしても』で、前半と後半の関係のなさそうな景を関係があるかのように提出することで、『光』『窓』という近いところにある単語が思っているよりも遠い場所にあるように感じさせる。にしても、この歌の『木々』が枯れ木っぽい感じがするのはわたしだけだろうか。

数はどんな数でも数え 飛行機と砂漠は夏を偶然にする

天使の入江

『数』の中に含まれる「偶数」の「偶」の字が『偶然』の「偶」を連れてくる。この歌を読むまで、『飛行機』『砂漠』『夏』の三単語がこんなに近い位置にあるなんて気が付かなかった(さすがに『砂漠』と『夏』が近い気がするのはわかる)。

味覚から煙草を叙述していけば銃口にふさわしい舌先

わたしが啄木鳥のように

用いられているほとんどの単語に「口」のイメージが共通しているが、『味覚から煙草を叙述していけば』と不思議な文構造を用いることで距離を遠くしようとする意識を感じる。そしてこの『銃口』は火縄銃の銃口な気がする。『煙草』から想起される火のニュアンスがそうさせるのだろう。

夕焼けが山の緑になじんだら心はコイントスで消えるね

空間における殺人の再現

『夕焼け』に対して『消える』という語は近い距離にあるが、この『消える』という動詞の主語は『夕焼け』ではなく『心』である。ここに距離感を制御しようとする意志を感じる。また、全く関係のない上の句と下の句の景を第三句『なじんだら』という順接で接続し、さらには結句を『消えるね』とあたかも書き手と読み手の間に共通の認識があるかのようにたたみかけてくるのも、『夕焼け』と『消える』という語の距離を実際のイメージよりも遠く見せようとする意識の現れではないのだろうか。

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