マーク・ロスコと自滅の去就
2010.10.19 Tuesday |
以前マーク・ロスコの絵を見た時、このやり方はずるいと思ったが――奸計の有る、の意味というよりむしろ、ignore:気づかないふりをする、のニュアンス――とはいうものの、その意味が自分にもまだよく解らなかったので、放っておいた。
たしかにそれは、抽象表現主義の手法「だから」という簡便な偏見と*少し違う処から来ているような気もした。
けれども最近シューベルトのあの “ 親密な ” 死への手なづけ方を学ぶうち(この種の親密さは、その絶対的な孤独と全然矛盾しない)何となく感じ始めたものがある。
そういえば少し前に何とかいう作家がロスコの絵を見ると自殺したくなる、と言ったとかいう文章を見た気がするが、その作家はおそらく良心的か、そうでなければロスコとは<別の>死を企てるだけの勇気もしくはそれに足る動機があるのかも知れない。
私にはロスコの絵は自殺というより自滅に近いと思えるが、それではその自滅に同乗できるかといえば、そうもいかない。あそこには予め孤高のLet it be――「これは私の自滅であってあなたのではない」――があるが、その意味の由来の多くは彼がシューベルトのようにナルシシズムと死への恐怖を同時に昇華して行った、あるいは昇華のプロセスを私たちと共有した、のとは違って、ナルシシズムの所在、もしくは何らかの無条件な自己肯定とか過剰な自己否定とかの問題を、前以て棚上げしたことにあるだろう。
とちょうどそのぶんだけ不可解な恐怖が、あの入念な禁欲的安息と絶妙な色彩の交換作用のさなかにあって恐怖だけが、濾過されぬままタブローの背面を漂うことになる。
したがってあれらの絵の前に立たされたものは、<同乗>出来ずにその自滅を手をこまねいて見ているか、目を・身体を背ける(見なかったことにする/関心がない)かの選択を迫られる。それなのに――意味を了った場合――その、死が親密にならない、誰でもあり誰でもないものにならないまま猶予されていた分の、謂わば放置された自滅の恐怖もしくは深さを<こちらが>(引き込まれ追放されつつ)引き受けなければならなくなるのだ。
Favourite:Mark Rothko,Orange and Yellow 1956
(こうした世界はたとえば東洋的滅却;生の極限としての空滅、というよりはやはり自-滅=死、へと至るだろう、作品の全てではないにせよ)