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#270 #72-15 少女マンガが20年進んでしまった

1972年前後から少女マンガのレベルが上がりました。

萩尾望都(はぎお もと)と竹宮恵子(惠子)。20年進めたのはこの同級の二人です。

1972年2月、萩尾の 『ポーの一族』シリーズ第1作が『別冊少女コミック』3月号に掲載されました。2018年1月 - 3月に宝塚歌劇団花組で上演されています。

萩尾は高校2年生のときに手塚治虫の『新選組』に強く感銘を受け、本気で漫画家を志しました。

1969年10月上京。同世代の文通相手で音楽を学んでいた浪人生増山法恵(ますやま のりえ)の家に泊まっていました。練馬区南大泉の増山宅の斜め向かいの共同アパートで竹宮惠子と同居。ここは「24年組」と呼ばれることとなる漫画家たちと交流しました。

トキワ荘(東京都豊島区南長崎三丁目1953年初頭の手塚治虫~1962年)のような「大泉サロン」となりました。

青池保子(1948年生)、萩尾望都(1949年生)、竹宮惠子(1950年生)、大島弓子(1947年生)、木原敏江(1948年生)、山岸凉子(1947年生)、樹村みのり(1949年生)、ささやななえこ(1950年生)、山田ミネコ(1949年生)、坂田靖子(1953年生)、佐藤史生(1952年生)、岸裕子(1949年生)

竹宮と萩尾、新たな少女漫画に大きな役割を果たしたのが、編集者の山本順也と言われる。

山本は2004年に、文化庁メディア芸術祭功労賞を受賞。同賞の講評で里中満智子は、「山本氏がいなければ日本の少女漫画の発展は10年は遅れたと思う。」と評価している。

竹宮、萩尾、増山、山岸凉子の4人は、45日間のヨーロッパ旅行にハバロフスク経由モスクワ回りでパリ周回で行きました。彼女ら24年組がヨーロッパを舞台にした漫画を描く原動力になったのです。

1950年2月生まれの竹宮は『ちょうど里中満智子さんが高校生漫画家というので紹介されたのを見て、私も同じ賞(講談社の新人賞)に応募してみたんです。』入賞したのは高校2年生だった里中満智子(1948年1月生まれ)で、掲載された『ピアの肖像』でした。

実は、増山は竹宮恵子の多くの作品の原作を提供していましたが、1988年まで公表されていなかった。増山は2021年6月30日から7月1日にかけての未明になくなったので、この権利関係はうやむやになってしまっています。

1949年生まれの一条ゆかり。高校1年でデビュー。1972年(昭和47年) - 『りぼん』の別冊付録として『一条ゆかり全集』(全6作)を刊行。その後は「砂の城」などがヒット。「有閑倶楽部」などのコメディ作品も執筆している。

1947年生まれの池田理代子は、下積みが長く1967年にデビュー。1972年に『週刊マーガレット』にて連載を開始した『ベルサイユのばら』が空前のヒット。1974年に宝塚歌劇団による舞台化が大成功。

少女マンガは戦前からありますが、60年代の中高生、ハイティーン向けが出たことによって活躍の場ができたことが大きい。

少女向け

なかよし(講談社、1954年 - )
りぼん(集英社、1955年 - )

中高生向け

少女フレンド(講談社、『少女クラブ』が1962年にリニューアル - 1996年)
別冊フレンド(講談社、1965年 - 旧『別冊少女フレンド』)
Sho-Comi(小学館、1968年 - 、旧『少女コミック』)

ハイティーン向け

マーガレット(集英社、1963年 - )※以前は中高生向けとされていた
別冊マーガレット (集英社、1963年 -)

別冊少女コミック(小学館、1970年 - 2002年)

萩尾と竹宮によって、その後に続く少女マンガ作家はそれを乗り越えられず苦しい時代が続くことになります。

私自身はギャグ系の少女マンガが好きだったのですが、そういう方向に行かざるを得なかったというのが本音だと思います。



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