舞い歌を編む、新しい原初衝動への気づき
原初舞踏の最上和子さんの稽古に通いながら、詩や発声との連関を探求している昨年の私のノートを引き続き見返している。
今年の新年明けに最上和子さんの稽古場の新年会で初めてのソロの舞踏を行った。私はそこで結果的に声も出して歌い、その深い体験を経て「舞歌」という方向で原初舞踏的に引き続き内発の身体と歌を追求していこうと思ったのだ
2024年 6/2のノートには「舞い歌を編む」という言葉が既に登場していたことに気づきちょっと驚く。
ここで語られている歌と舞踏の両方に関わるその原初の衝動に気づいたこと自体の記憶はあまりないが、気がつくと雨が降っていて、その雨音の遠鳴りに不思議な感覚になり、ある閃けた意識の中で気が付くと雨がやんでいた、という風景の全体はよく覚えている。
身体が深まってから不思議だなあ、面白い、と思っていることの一つに身体による場の記憶が実はすごく強力だということ。雨音がきて、聞こえなくなった風景を思い出したら、私の身体は、そのときのことを強度のある身体的記憶としてよみがえらせてくれている。言葉や感覚で何を認識したかの表層のそのときの言葉は忘れていても、その場とそのときの自分という全体の記憶は身体を介してなくならない強度としてある感じがする。
話を上記の詩にもどすと、雨音のことを書いておいてよかったと思う。
とにかく私は歌と舞いの両方につながる何かに気づこうとしていたらしい。
このことの数か月前にベルギーのバスクラリネット奏者のヨアヒム・バーデンホルスト (Joachim Badenhorst) とスタジオ録音を行った。その際にやや狂言や能に近い私の発声で面白録音ができた。そのときの気づきを受けての以下のメモもある。
Jubilatio とはグレゴリオ聖歌の元になった詩編の母音を長く伸ばして歌う唱法。アウグスチヌスは歌わないでただ言葉を唱えるよりも、Jubilatioのように歌う方が讃美の気持ちが深まるからとして典礼における歌唱の重要性、必要性を認め、ミサ典礼の中の歌が正式に始まったとされているらしい。西洋歌音楽の始原ともされる形態。
そしてさらに以下のようにつづられていく。
ボストンで身体に真剣に向き合う日本人の当時20歳で留学してきているダンサーに出会い、彼女の身体に向き合う姿勢にダンスとはこんなに聖性に近いものなのかと驚かされ、教えられた。
15歳の頃、ロマン・ロランのジャン・クリストフを豊島 与志雄の訳で読み、私の魂の中の何かが激しく厳かに立ち上がった。このときにもその体験がなぜか思い出されて立ち上がってきた。自分の魂に望まれているもの、魂の召命、みたいな言葉も浮かんだ。
そして方法論などの理知的な定義でなく、以下のような高揚がその日の最後のノートに残された。
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いわゆる「詩」として囲いこんで紹介するなら、最後のものだけを提示するのかもしれない。しかし、一方でこのようにそれを生んだ周辺の痕跡を含めてとりあげて、ある程度時間がたって、少し他人事?!になった諸々の自分の言葉について書くことはとても面白いと思った。
直後であれば、その言葉にこめた背景の自分の中の渦巻く状況、高揚が熱く、また動き続けている。
ある時間がたって、それを振り返っている自分には、そこから深化した自分の今の位置と様態がある。結局、その二つの位置を包括する視点で面白い奥行や広がりが見えているのは私自身だけかもしれないが、局在化し、囲い込まれた最終形の言葉のみを提示するより、これらの周辺の言葉や思考の「ささやき」「ざわめき」のような背景をとらえる、この「過去の自分のノートの振り返り」は、思った以上の意味があるような気がし始めている。