韓国生まれ育ちの僕が『日本への恩返し』と言っている理由_後半
こんにちは!
株主優待ユーグレナという会社で
・上席執行役員
・ヘルスケアカンパニーCEO
として日々奮闘しているふぁな(本名:金 城煥)です。
これまで、
・なんで日本に来たの?
・これまでってどんなキャリア?
・どんな想いで日々取り組んでいるの?
など、ありがたい事に質問をいただく事があり、自己紹介を兼ねてその想いもお伝えしたいな・・という気持ちで、前編では、生い立ちと学生時代のお話をさせていただきました。
今回は、就活から就職、現在のキャリア形成に至るまでのお話をさせていただきます。拙い文章力・日本語力で違和感・間違いなどあるかと存じますが、何卒ご了承くださいませm(_ _)m
まずは重複しますが、改めて経歴をご紹介していきます。
僕は
・韓国で生まれ育ち
・大学から日本へ(留学)
・新卒でロート製薬(経営企画、営業企画、投資企画)
・その後にファーストリテイリング(社内社長室・社内コンサルの仕事)
・楽天(EC事業企画)を経て
・ユーグレナ(CEO室→ヘルスケアカンパニーCOO→CEOへ)
とずっと日本企業にこだわり、働き続けています。
前回は日本に来てからの大変な時に助けてくださった周りの日本の方々への想いについて触れましたが、今回はその後のキャリアについてお伝えしようと思います。
就活時の軸は『本気の自立』
就職活動の時は
・『自分が持ちたい環境、人間関係は、自分がちゃんとしてないと持つことも、維持する事もできない』という幼少期の経験からの記憶
・『自分自身の働きや努力で恩返ししていきたい』という思い
から
『努力がいち早く報われる、裁量を持てる、上に上がれる、経済的に、社会的にしっかりできる会社・組織にする』と『その会社・組織で死ぬほど努力したら、そういう自分になれそうなところ』が就職活動の判断軸でした。
当時は、日本が世界で一番強い分野を事業としている会社の方が、海外出向やグループ会社のマネジメントの経験などにより近いかと思い、toBメインの企業(取引先となるお客様が企業や事業体)、その中でも中間材、特に化学系を中心に受けていました。社名でいうと旭化成、積水化学、花王ケミカル、パナソニックなどです。
面接など選考にこの想いで準備し、挑んだからか、ありがたい事に希望する会社に内定をいただいたりしましたが、最終的に入社を決めたのはtoBの企業ではなく、toC企業として(お客様が個人より)唯一受けていたロート製薬でした。第一希望だった旭化成社と最後の最後まで悩みましたが。
ロート製薬社にしたのは
・オーナー社長であり、社内統率力が強い
・当時グループ売上1,000億と内定いただいた他の会社に比べたら事業規模は巨大とは言えないものの、目薬、胃薬を軸にしたキャッシュカウ(利益柱)をしっかり持って事業展開していた
・同期含む会社全体の人数が多くなく、男性は内定いただいた他の会社より少なったという事で『ここで死ぬほど努力して圧倒的に成果を出したら海外やグループ会社のマネジメントなど、より早めにその道にいけるのでは』と思った事が理由として挙げられます。
新卒でいきなり経営企画に配属
ロート製薬で最初に受けた辞令・配属は『経営企画部、一人で』でした。それまで総合職の新卒は営業、商品企画、マーケティングの配属と聞いていたのでこれまでスポーツも日本語も何事も基礎からの積み上げる方だった僕は『最初は営業だなー!』と思っていたので『経営企画・・?何するのそれ・・??』と目はハテナになりました。その後に聞いた話では新卒を経営企画配属にしたのは130年歴史上初めてであり、ロート製薬を卒業する時の挨拶で山田会長に伺ったのは『海外などマネジメント層に育てようと思っていた』との事でそういう判断だったんだ・・と理解しました。
経営企画部への配属は、部内でもサプライズで部長も知らなかった・・というところから、そして僕の主業務となる『予算策定・管理』の前任40代で自分より20年も先輩の方は、僕の配属3ヶ月後にはアメリカ赴任でいなくなる。さらに予算策定・管理業務には基本PPT、Excelが使われいて大学ではWordでレポートを書くぐらいだった当時の僕にはとんでもなくハイレベル。会計知識は皆無だったのも会議内容がほぼ理解できない・・。最初の何週間は度々頭が真っ白、背中には汗、眠りは浅いとこれはやばい・・となる日々でした。
一方、レポート先は
・経営企画部長、本部長
・それを経て社長、会長まで
自分がまとめた予算案、予算進捗がいく。
当時の本部長に確認とツッコミの時間を割いていただいたのですが、その方に毎日7時から21時まで挑み→撃沈→挑み→撃沈の繰り返しでした。
今となったら、1年目に本部長クラスが時間を割くなんて有り得ないところ、真摯に向き合い、愛の鞭を打って下さったと心から感謝しておりますし、そこが僕ぼ原点だと思います。が、当時は何言ってるのかも、なんでそういう話になるかも全く分からず、ただただ辛い日々でした。
焦りに焦りましたが、ここで『使えないやつとなったらもう終わりだな、恩返しとか言ってたじゃないか』という思いで途中から火が付き、とにかく必死にやりました。
・業務中は話についていくのに必死
・帰宅後は聞いた話の整理、勉強と理解に必死
そうしているうちに簿記の資格も取れ、数字にやツールにも慣れ、半年1年後は不十分ながらなんとか、レポーティング・議論が出せ、1年半後には『数字を基にこうあるべきです』と言えるようになりました。
そこから芽生えたのは、当時の本部長、現ロート製薬の副社長でいらっしゃる斉藤さんと自分の年齢から年を逆算して『この時点では同等まではいけなくても、最低でも議論できる自分にいよう。そのために積むべき経験は何だ?』を考え、行動する思考です。斉藤さんにはその思考を持つようになった事も含め、恩師と、心底感謝しております。
社内でキャリアを形成していく流れ
経営企画での2年を、なんとか乗り越えて
・中期計画策定(3ヵ年のPL、BS、CFなどの財務諸表策定)と投資家対応
・単年度の予算策定、管理
・ブランド、チャネルへの投資配分の調整
などができるようになりました。
その後はより売上に近いところで、どのように売上や計画を立てているかを経験したいと希望を出し『営業企画部』へ異動。そこで各チャネル(ドラッグ、GMS、スーパーなど)にどんな販売戦略を、どれぐらいの期間でやっていくかなどの『営業戦略とそれに基づく売上計画の策定』を理解。その後はメーカーにいるからにはと『生産・投資企画』に手を上げ『生産・調達とそのための投資』について学び、理解致しました。そのロート製薬でのここまでの経験は現職でも大いに役立っています。
ただ・・当日の私はまだ20代中旬を過ぎたあたり。売上、費用、販売計画、生産調達計画、投資計画など社全体の数字を経験し、各部署と調整ができるネットワークを持つ事であらゆる方々に頼りにされた事から、意識無意識に図に乗るようになったと思います。『自分はできる、ここで学ぶものはない、もっと広い世界にいかないと当時描いていた、早めに・より恩返しができるポジティブにはいけない』と。
今思う当時の自分は
・大した事ないのにちやほやされて『自分はできる』と思い込んでいた
・そこから午前中に仕事を終わらせて、午後はやる事やったし暇ですなど言いながら日経などを読み、違うインプットをしていた
など・・
とんでも恥ずかしいやつでした。
それでもまだマシだったのは『このままだと自分は腐っていきそう。少なからず30、35歳までになりたかった自分にはなれない・・。もっと厳しいところ、自己成長できるところに身を置かないと面倒見て下さった斉藤さん(当時の経営企画本部長、現副社長)に合わす顔もない』と思い、アクションに移した行動だと思います。
ファーストリテイリングでの体験
そのタイミングでファーストリテイリング(ユニクロ、GU、theory、PLSTなどの親会社)に縁あって入る事に。P&Gやユニリーバ社へと言う話もありましたが、日本・日本の方々への恩返しの気持ちで外資系より日本企業にと思い、決めました。
所属は『事業経営支援部』で社長の『柳井正さん』に『○○という課題があり、結果年間○○の問題が起きています。考えられる打ち手はA、B、Cの3つであり、その中で打ち手Bを打ちたいと思います。施策を打った結果は・・』と提案・報告する『社長室+社内コンサルティング』をミッションとするところでした。
当時、柳井正社長は68歳。70歳引退説があったのでそれまで2年間、日本を代表とする経営者のもとで働くのは、1社目ロート製薬で新卒時に鍛えられたように成長に繋がるのではと思った事が大きいです。それに加えて経験を積みたかったコンサルティングよりの業務を、2-3ヵ月をベースにプロジェクトでこなす、且つミッションは海外グループ会社におけるものが多く、経験を積みたかった海外・英語の経験もできる、という事で『よっしゃってやるー』と意気込んでジョイン致しました。
所属部署には大手企業の海外小会社の代表をやって日本に戻るとなった時に転職した方から新規事業責任者、外資コンサルティング会社出身などいわゆる『ザ・仕事のプロ』の集まりであり、僕との実力差は歴然。少しでも『できる』と思っていた事が恥ずかしくて穴に入りたいぐらいの圧倒的且つ全てにおける差があり・・最速・最強の強さで鼻が折れ・・あっと言う間に付いていくのに必死な新人時代に戻ったかのような気分・働き方になりました。常に謙虚でと思うようになったのもここでの学びが大きかったと思います。
また新人時代と同様、とにかく必死で食らいつきました。2週間で4ヵ国出張、ソウル→上海→トロント→ニューヨークのようなスケジュールを、飛行機でレポートを仕上げ、降りて時差関係なく動くスケジュールを2年間。精神より体が先に悲鳴を上げ、2回ほど、それも海外で救急車で運ばれた事もありました。
一方、2年そうしているうちに、最速で最強になるための
・考え方
・仕事の進め方
・効率の追求
・周りの巻き込み方
・上司への報告、説得の仕方
・仕事のもらい方、渡し方
などが身についてきて、1年半あたりからは『少しはワークしているかな?』と思えるようになりました。
振り返ってみると人生で最も辛い時間(在籍期間の3倍は寿命縮んだ気がします)だった一方、人生で一番ビジネスマンとして成長した期間でもあったと思い、ファーストリテイリング出身者が各方面で実績を上げているのを見て『それはそうだよな・・』と思います。『ビジネスの根源を、誰より早く強く抑える』在り方は、今でも沁みついてますし『Fight to win』という柳井社長の言葉はスマホの待ち受け画面にしているぐらいですから。
その後も成長に軸にキャリアを歩む
そうこうしながら感じてきたのはロート製薬→ファーストリテイリングと製造業の経験しかない自分の『データ、EC、AI関連の知見・経験の無さ』でした。
今後ますます必要になる、より加速するというのは明確と思っていたので、『将来それらを分かってない企画者は価値が無い』と思ったのが他の場所などを考えるきっかけとになります。
当時でも日本一製造業と言われていたファーストリテイリングでも、データ、EC、AI関連はあらゆる外部会社に世話になっていたので、社内にいてもそこまで身につくものではなさそう、外部の環境内に飛び込まないとダメと思うようになり『Amazonか楽天か』となりましたが、日本企業へのこだわりと日本『支社』より日本『本社』の方がよりデータ、EC、AI企画に近いだろうと思い、35歳までは将来に繋がるインプット(経験・理解)を深めようと楽天への転職を決めました。
楽天では希望通り、EC事業の施策や事業企画関連で
・プラットフォームビジネス
・ECビジネスそのもの
・データの在り方、活かせ方
・AIの現状
などを経験、身につけました。
楽天での以下の経験は現職でも
・サイトにどれぐらい人が来て
・購買までどのような動きを見せ
・その動きに合わせてどのような施策やサイト改修を入れるか
など、活かせる内容ばかりで
・事業に活かせるデータとそうでないデータの分別
・事業に活かすデータ蓄積のためのアクション
などの理解をもって現職に取り組んでおり、経験して良かったと思います。
その後、両親の体調で介護が必要になり、フルモートでも大丈夫と声掛けいただいたパーソル社にもお世話になりましたが、それもひと段落し『インプットは一定できた。次は、どこでアウトプットを頑張るかだ』という思いで次のステージを考えるようになりました。
その時までに考えてきて、思考がまとまっていたのは、
・ビジネスの中を有形(リアルな商品)と無形(ソフトウェア、Saas、プラットフォームなどの商品)を分けるとしたら僕は有形商材・ビジネスが好き
・製造業とECなど、これまでの知見を活かせる場所なら尚良
・同じ時間をかけるなら、より日本と日本の方々に還元できる方が良い
などで、そこで縁があって紹介を受けたのが現在のユーグレナ社です。
ユーグレナ社は
・資本力も無いベンチャーなのに日本初のバイオ燃料量産に挑んでいる
・M&Aで爆速で規模を大きくしてきている
など、身の丈より何倍も高い目標を立て、取り組んできている会社です。
その事を知り、僕は『同じ時間と労力をかけた時にどこで日々取り組むのが日本社会への還元がが大きいか』を考えていていたので、まさにユーグレナ社がそれを実現する場と思い、ジョインを決めました。
最短で責任を担えるポジションに
ユーグレナ社が入社最初から役職付のポジションではないというのもあり、入社後はCEO室の一員としてジョイン。その半年後、ユーグレナ社の中の『ユーグレナヘルスケアカンパニーのCOO』として着任。本格的に執行に入り、半年弱の取り組みに評価をいただき、2024年1月には
・ユーグレナグループ全体の上席執行役員
・ユーグレナ内の複数のヘルスケア会社のグループを束ねるヘルスケアカンパニーのCEO
に就任と、1年ぐらいでここまで来るのは創業以来、最短だったそうです。
日本、日本への恩返しの想いをずっと胸に
冒頭の繰り返しになりますが
・日本語も分からない
・お金もない
・頼れる知人もいない
という環境の中で僕がここまでやってこられたのは、日本の方々に助けていただいたから、お世話になっているからでしかないです。その気持ちは今でも全くぶれずにいます。
どこ生まれの、どんな奴かも分からない外国籍の僕を温かく受け入れてくれた方々への恩返しを、間接的にでもしたい。その気持ちが日本企業にこだわる理由です。
上席執行役員、ヘルスケアTOPとしての想い
お伝えしたように、2024年の新体制でより、会社を深く大きく支えられるような立場になりました。
その中で実現したい事は、たった2つです。
一つ目は今大変苦労している仲間(従業員)と同じ山・崖を登り、登り切った後の景色を、喜びを皆で分かち合う事。そうする事で昇格昇給、人生に繋がるキャリアや経験をしてもらう(社としてそういう還元を行う)。
二つ目は日本で、世界で一番お客様を健康に、美しく、幸せになる会社になる事。お客様に深く、広く向き合っていただく形は言葉は簡単ですが、凄く難しい事で、が故にヘルスケアにおける上位TOPの会社様ですらここまでくるまで何十年かかったり、今だ苦労されていたりするんだと思います。ただ、『地球と人の健康のために』を社のスローガンに掲げたからにはそれにチャレンジすべきだと思いますし難題こそ挑戦し甲斐があり、登り切った後の景色が奇麗、嬉しいと思うので挑んで参ります。
話は変わりますが、僕の祖母がつけてくれた僕の名前『城煥』には『人を導く輝く人』という意味があり、そうなれるよう気持ちを込めた名前にしてくれたようです。そういう名前をもらったからには、名前負けせず、それ見合った、もしくはそれ以上の人生を生きていくべきと思います。名前も一つの原動力にして。
その事からこれからもこれまでと同じように、
・なりたい状態、叶えたい事を書き下ろし
・時間軸から逆算して計画し
・具体的なアクションに落としていく
事で今描いている事を、結果でお見せする形にしようと思います。
大体以上・・になりますがこう書いてみると、本当に長いですね・・💦
僕は自分の事や想いを伝える事が不得意で恥ずかしさもあってこれまで形にしてこなかったですが、ある友人に『いい話なんだから絶対形にした方が良い。そのうち一人だけでも、理解してくれるならそれで十分じゃないの?』という事も言われ・・そうだなと、想いを形にしてみようと思い、書き下ろしてみました。
拙い文章・日本語なのに最後までお付き合い下さった事、心から感謝申し上げます。日本・日本の方々への想い、感謝の気持ちを込めて・・以上です!お読みいただき、本当に有難う御座いました!!
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?