沈潜のずっと手前
射初め会に参加した。
初心者弓道教室から弓道会に入ることにしたのだ。
これは私にとっては大冒険である。
何でも本を読むことから始めるので
今「弓と禅」を読んでいる。
高校の頃に弓道部だったので
弓を引くことは体が覚えているが
20年以上振りなので所作を忘れてしまった。
高校時代は「競射」をしていたので
的に矢を中てることを最優先で練習してきた。
そのため、矢数をかけるために
所作をおろそかにしていて
気がつくと自己流になっていた部分もある。
これが癖となって私を苦しめているのだ。
現在自分の手の内の汚さにがっかりしているが
今に始まったことではなく
弓道を始めて20年以上手の内と戦い続けているのだ。
(ブランクがあるが、私は弓道をやっていなかった20年以上の間もふとした時に手の内や離れを意識して生きてきた)
イチローのルーティーンを思い出したが、
イチローは打席に入るまでのルーティーンはもちろん
日常からルーティーンを大切にしている。
弓道は射法八節という基本の手順があるが、
いかにこの基本の一連の流れを
乱れなく落とし込んでいくか
いわば「ルーティーン」が大切であると考える。
高校時代の私は、野球で例えると
打席でのルーティーンしか考えていなかったが
このたった3か月弓道を再開しただけで
日常から整える大切さに少し気づけた。
そして、弓道から離れて何気なく過ごしてきた
二十数年であったが、
振り返ると驚くほど弓道の精神とともに
生きてきた二十数年だったことが分かってきた。
これまで緊張する場面では、
呼吸法を幾度となく活用してきたし、
自分でいうのもなんだが
背筋を伸ばしてキビキビ歩くようにしている
というか、そうなっている。
余談だが、日頃からいろいろな人の歩き方を見てしまう癖がある。最近の若い人たちはペンギンのようにペタペタと歩く人が増えたなと思う。
忘れてしまっていた所作も多いが
何気なくも根付いている所作もあって
やはり高校時代に弓道を選んで良かったと思った。
弓道を再開してもう一つ面白いなと思ったのが
「残身(残心)」である。
高校時代は残身について深く考えることがなかったが
残身が気持ち良いのだ。
技と同時に終わって忘れてしまうのではなく、
余韻を残す
この部分が矢数をかけていた高校時代には分からなかったが大事なところである。
一射ごとに改善点がみつかり、
残身の間に今の射について考えを巡らせる。
本来ならば「無」を追求する時間かもしれないが
まだまだ未熟な私の残身は、反省会になっている。
でもこの一射ごとに考える時間が今は尊いのだ。
ちなみに一度も理想の射に辿り着いたことはない。
なにせ手の内が全く出来ていないのだ。
これから先もずっと手の内と離れのことを考え続けるのだろうと思う。
射初め会は、
風船と扇子に中てることができ
幸先の良い新年となった。
久しぶりに触る安土が的を準備するのではなく
風船とか金的の設置という非日常で
なかなか経験できないことでドキドキした。
弓道会は初心者弓道教室の時のウェルカム感はなく
いきなり厳粛な雰囲気でアウェー感が否めないが
出来る範囲で続けていきたいと思う。
今のところ
自称人見知りの私は、ほぼ誰とも話せず
ひっそりと己の射と向き合っている。
時々八段の弓道の会長だという先生が
私の手の内を触って直してくれる。
そうすると的に中るので本当にすごいと思う。
すごい先生に見てもらっているんだろうなと
今更ながら緊張してきた。
でも私は長年意識してきた呼吸法で緊張を和らげることが少し上手になっているのである。
今年は己の射と向き合ってみようと思う。