教育について(3/3): 本来あるべき姿?
これまで二回に分けてアメリカの教育の問題点を見てきました。当人の一番強く感じたのは、大学レベルでの異常な高学費、小中高校レベルでの飼いならし教育の二点です。そして、これらには、おそらく不公平・不平等な援助の配分や不動産事情も含めた消費者搾取という問題も深く絡んでいるようです。
確かにアメリカの問題点は顕著だと思いますが、他の国ではどうでしょうか? 日本では、昔から詰め込みやテスト重視が問題視されていると思いますが、逆に大学では放し飼いという面もあるかと。そして、基本的には世界中の教育現場に過当競争は付き物です。
では、本来の教育とはどういうものでしょうか? 当人の勝手な見解を言わせて頂ければ、青少年が彼ら彼女ら自身に直接関連した重要問題を的確に理解し、それを解決出来る能力、意志、そして実行力を身につけ、練習する場を設ける事だと思います。人間社会は前世代の作り上げた大問題を抱えながら、未だにそれらを解決出来ず、大きな苦悩を患っています。次の世代は、その被害を被っているのではなく、是非その様な状態から抜け出してもらいたいものです。
まぁ、色々な学校が一応このような事を唱えているかも知れませんが、現実的には、こういった事を最重要視しかつ実行しているようには思えません。逆に、アメリカの小中高校での飼い慣らし教育などは、生徒・学生に対して、現実から目をそらさせ、自発心を打ちのめし、レールに沿うしかないと思わせるようなものだと思います。
世界中での、過当競争を作り出す教育環境にしても同様な結果を生み出しているように思えます。生徒・学生に直接関連した重要問題どころか、学校側・設立者たちは自分たちの意図・意向に沿って子供たちの問題意識や自発心を抑制しているのではないでしょうか。当然、学校設立者たちの中には素晴らしい理念を持っている方々もたくさんいると思います。例えば、故津田梅子さんの女性の意識向上についての功績を否定する人はいないと思います。
さらに、生徒たちの興味なり自発心を重要視するような教育目標を第一に掲げてきた教育者は、すでに大勢います。イギリスでは、A・S・ニイルという人が『サマーヒル・スクール』という学校を創設しました。例えば、授業に出ることを強制はしないのです。詳しいことは抜きにしますが、この学校は自発心重視の看板的な存在と言えます。このようなタイプの学校はフリー・スクールと呼ばれることがあります。
アメリカでも、自発心を重視する教育を唱える人々は少なからず存在します。古いところではジョン・ホルト、最近ではアルフィー・コーンといった教育の専門家がとてもいい事を言っていると思います。それに、アメリカには、多くは無いようですが大人のためのフリー・スクールがあるようです。まぁ、公民館の講習とか、私設のカルチャー・スクールのようなものを、有志がボランティアとして無料で運営するようなものでしょうか。
日本では、 工藤勇一さんという人が、大変に思慮深いことを言っているので下に引用します。
親から何かを与える代わりに、子どもが自己決定できる機会を作ってみてください。小さな自己決定を繰り返させていくことが大切です。その時に使えるのが「どうした?」「どうしたいの?」「私は何を支援したらいい?」という3つの言葉です。......授業を抜け出す生徒を追いかけて注意するのではなく、この3つの言葉をかけます。もし生徒が「勉強したくない」と言うならばそれを認め、「授業に戻るか、別室を用意できるけどどうする?」と、支援の提案をします。生徒が別室で過ごすことを決めて、そこで好きなことをやっていても構いません。これを繰り返しているうちに、授業にはでられなくても別室で勉強をするようになったりするんですよ。(https://www.asahi.com/and_edu/articles/0016/)
世界各地で生徒・学生の自発心を重視した教育というものの必要性が認識され、そういった理念を持つ学校がそれなりに設立・運営されてはいる訳です。それでも、こういった運動は決して主流にはなっていません。どうして爆発的に普及しないのでしょうか? どうして、ありきたりの学校ばかりが横行しているのでしょうか?
これにはいろいろな理由が考えられます。ひとつには、一般市民が様々な方法で、あまりにも自発心を抑えられてしまっていて、何が必要か何をすべきかといった重要な事を考える力もゆとりも無くなってしまっているという可能性です。すでに、多大な被害にあってきた人々には蘇るための余力もないという状態でしょうか。
もう一つには、学校という仕組みがあまりに上手くいっているという現状があると思います。たとえ一般市民に少しでも自発心が残っているとしても、簡単に学校という仕組みに飲み込まれてしまうのではないでしょうか。人生、すでにあるレールに従って生きていくのは簡単かも知れません。ただ、すでにあるレールとは、誰かが敷いたものです。当然の事ながら、敷いた人々が利益を得るように仕組まれているのです。
いずれにしても、学校という所は教育を施す側の人々が作るところで、教育を受ける側の人々が作るところではありません。したがって、生徒側ではなく、基本的には学校側の意図に従って設立・運営されています。そして、アメリカほどでは無いにしても、世界中どこでも学校は設立者・運営者の『商品』を売るという姿勢が少なからずあると思います。
つまり、強いて言わせてもらえば『学校』というものそのものに問題があるのではないでしょうか。ピアノが弾けるようになりたいから、ピアノ教室に行く。英語が話せるようになりたいから、英語会話教室に行く。将来役に立つだろうから、大学に行く。いずれの場合も、学校というところには教師と生徒が居ます。生徒としては、そこに行けば教師が何かを教えてくれるはずだという受け身の姿勢があるのではないでしょうか。
そして、たとえフリー・スクールといっても、まだ学校という名前を使い続け、同様の形態を取っています。つまり、当人としては、どんなにフリー・スクールのような所でさえ、学校の前提条件であるところの教師が生徒を教えるという構図そのものが大きな問題だと思うのです。
繰り返しになりますが、一番重要なのは生徒・学生の自発心だと思うのです。もし、この自発心というものが十分に強ければ、自分で何かを身につける方法を見出し、一生懸命に頑張るはずなのです。そして、この自発心の根本となるものは、その人自身に関わる重大な『問題』だと思うのです。
例えば、ある人は貧困家庭で育ったとします。その人は、どうにかしてその状況から抜け出したいと切望するに違いありません。ここで、すでにあるレールに沿って進むか、この自発心に基づいて自分で道を切り開くかは大きな違いを生み出すと思います。たとえ、その人がレールに沿った人達と同様の道を選んだにせよ、中身が違うはずです。
そして、世の中は問題だらけです。気候変動等の自然問題、犯罪や環境破壊等の社会問題、引きこもりや各種依存症等の精神問題など、いくらでもあります。誰でも、問題を抱えていない人などいないはずなので、誰でも自発心の種を持っているはずです。
尚、一般的には、重大な問題というものに単純な解決策というのはありません。それなのに、普通の学校では、すでに用意されている解答を当てるというようなテクニークを重視しすぎている気がします。そんなものを学んだところで何の役に立つのでしょうか? 実社会で役に立つ訳がありません。
さて、どんなに自発心が強くても、言われるままに社会の、そして学校のレールに乗ってしまったら、結局怪しげな大人の思う壺でしょう。そうではなくて、強い自発心に基づいた上で自分で問題に取り組もうという姿勢が必要だと思います。学校に頼ることを前提としないで、そのような自発心に基づいた行動を育むような場所なり機会なりが必要だと思うのです。ここでは、その様なものを『青少年問題取り組み道場』と呼んでみます。名前は重要ではありませんが。
青少年問題取り組み道場では、子供たち各自が直面する重大問題から物事を始めます。これが動機です。子供たちは、皆違う環境にいるので、それぞれ異なった問題から始めることになるでしょう。道場の相談役なり先輩なりは、子供たちを補助しますが、何も押し付けることはありません。ここで、教師ではなくて相談役というのは、大人の意志を押し付けないという意味合いからで、ここでも名称は重要ではありません。
もし、子供の問題点が、子供にとって非常に重大であるなら、その子供は全力でその問題を解決したいと思うでしょう。それが、自発心です。例えば、貧困に直面してしている子供は、どうしてそうなっているのか、現実を正確に捉える必要があります。そして、貧富の差が資産の不平等な配分に基づいていることに気づけば、それを是正する方法を見出して、自分が不当な立場にある状況を正そうという姿勢が培えると思います。当然の事ながら、資産家なり独裁者なり独裁政党なりの手段というのはこういった事が起こらないようにすることに違いありません。
尚、自発心は中から発生するもので、外から注入したり、育成したりすることは出来ないと思います。逆に外から出来るような事は、自発心を打ち砕き、破壊することです。今の教育が多かれ少なかれそういった悪い効果を与えていることは確実だと思います。皮肉な見方としては、アインシュタインなどの反抗的先駆者は「義務教育のおかげではなく、義務教育にもかかわらず」(Allen Graubard)、偉業を成し遂げたという人もあります。
さて、どんなに子供に直結した問題を認識して、それに対する自発心が高くても、それに対処する能力なり経験なりがなければ、その先に進めないでしょう。青少年問題取り組み道場は、そういった能力を育み、練習する場所と成り得ます。相談役なり先輩は、子供たちの問題点と自発心を最重視しながら、必要最小限の補助をします。
そして、残念ながら、既存の重大問題の多くは簡単に解決出来るようなものではありません。もしかすると、永遠に解決出来ないようなものばかりなのかもしれません。青少年問題取り組み道場では問題解決を目標とはしますが、現実的には解決が目的とは限りません。道場で養う事とは、そのような問題に取り組む姿勢であり、能力であり、努力であります。今まで想像もされていなかったような新しい方法を考え出すような自由な発想力であります。それに、動機と自発心に基づいた根気であります。こういった経験は、子供たちが大人の言うことを聞いているだけでは決して出来ないと思うのです。
尚、一般的に教師というのは決められた教育内容を伝達するような訓練を受けているので、青少年問題取り組み道場の相談役のような役割を努められない気がします。場合に寄っては、少しでも似たような経験を積んだ先輩の方が適切な手助けが出来るかも知れません。または、同じような、あるいは全く違った問題に取り組んでいる他の子供たちとの共同作業の方が有効かも知れません。
いずれにしても、こういったことを言うと、理想論だとか現実的でないとか言われるかも知れません。そうでしょうか? 当人としては、古い『学校』形式の教育を続ける事の方がよっぽど虚構的で現実離れしていると思います。
それに、青少年問題取り組み道場でさえ、設立するのには資金が必要だと言われかも知れません。確かに、活動の場所、相談役の雇用、機材・資材の調達等を考えればその通りです。しかしながら、道場のようなものは無償のフリー・スクールのような形態でも実現出来るのではないでしょうか? つまり、図書館や公園等の公共の場を使い、相談役はボランティアをお願いするとか、いくらでもアイデアがあると思います。それに、昨今の世の中、オンラインで始めてもいいですよね。つまり、現存の学校と並行しても出来るということでしょう。
尚、自発心に基づいた活動にも限界はあるでしょう。例えば、歪んだ環境等を経験した子供たちは、興味なり自発心なりが犯罪など反社会的行動である可能性もあります。または、子供の興味が遊び、ゲーム、引きこもり、恋愛など、普通の『教育』では対照とされないようなものであるかも知れません。このような場合こそ、相談役なり先輩なりが子供たちの相手となって一緒に考えてあげるべきではないでしょうか? 元はと言えば、子供たちの問題は『全て』大人に責任があると言っても言い過ぎでは無いと思います。それをもってして、子供たちを避難・虐待すべきではありません。
ダラダラとしてしまいましたが、この辺で当人の悪あがきは終わりにして、教育についてのエッセイの三回分全てを終了します。そして皆様におかれましては、色々と違った考え・経験があることと思いますので、もっと良い意見を紹介して頂きたいと思います。