西洋思想と東洋思想の接点はインドにあり
これもまた、当人の全く勝手な見解です。十分な文献の調査も、学術的な検証もされていませんので悪しからず。ことの始まりはDaniel Golemanの本『The Meditative Mind: The Varieties of Meditative Experience』にあります。Golemanはこの本の中で、瞑想には大きく分けて2種類あると人から教わったと書いています。『1』の瞑想と『0』の瞑想があるというのです。
さて、当人の解釈ですが、『1』の瞑想では、瞑想者は「神」その他の超常現象等に同化することを目指します。『0』の瞑想では、瞑想者の直接体験に基づき、瞑想者の自我が環境の中の一部として「解体」することを目指します。解体というと誤解を招きやすいのですが、自我が無くなるくなるわけではなく、普通自我と思っているものは環境の中での複雑な連鎖反応の一断面に過ぎないという見方です。『1』の瞑想の代表的なものはヨガの瞑想で、『0』の瞑想の代表的なものは仏教の瞑想でしょう。当然、ヨガも仏教も(広義の)インドが発祥の地であります。そして、当人が言いたいことは、
(*) 瞑想における『1』と『0』の違いが西洋思想と東洋思想の違いを反映する
ということです。つまり、同じインドの中にこの境界線があり、その境界線はよく同類として片付けられる、インド発祥の宗教・人生観の真っ只中にあると言う考え方です。ちなみに、この対立は、よく言われる西洋と東洋の境界とは異なります。つまり、前者はキリスト・ユダヤ・イスラム教(一神教)に基づき後者はヒンドゥー(多神教)・仏教(無神教)に基づくという考え方とは全く異なるということです。
恐らく、世の多くの人は、(*)で示される主張に、当惑するか、あるいは反論するのではないかと思います。それは、誠に結構な話であり、当人はそのような状態に反発するつもりはありません。いずれにしても、まず、少し注釈を加えたいと思います。瞑想に関する手法に関しては、ヨガも仏教も多くの共通点があります。例えば、両者とも呼吸を使うのが最も一般的な方法です。また、両者とも精神集中および洞察・気づき両方の側面を重視します。特に、仏教よりも歴史のあるヨガでさえ、仏教が最重視した洞察・気づきの役割を後から取り入れています(例:ヨガ・スートラ)。また、瞑想中に体験する精神状態にも類似点が多く存在します。そのため、多くの人は両者の瞑想を混同しがちです。それでも、上に書いた通り目標地点に究極の違いがあるのです。同じ地域で発展し類似の形態を取りながら、どうしてこのように極端に違うゴールを目指すのか興味深いと思います。
歴史的に言えば、ヨガはヒンドゥー教(あるいはその前身)を背景に発達しました。多神教という点ではキリスト・ユダヤ・イスラム教と異なりますが、神を崇拝する点では何の相違もありません。そして、この神(あるいは神々)の崇拝の極致は自分が神になることです。この接近を限りなく求めるのが『1』の瞑想の根源と思われます。また後で述べますが、神が絡む限り必ず「助っ人」が登場することも見逃せません。これらの助っ人は、宗教家のみならず、実業家や政治家も出てきます。
仏教は、釈尊(ブッダ)がヨガ・ヒンドゥー教を含む当時の宗教・思想の問題点を打破するために始めたものです。神を祀るのではなく、現実を直接見極めることにより煩悩から解放されることを目指します。すなわち、個々人の意志・実行が強調されています。師の役割を否定するわけではありませんが、師の言っていることが正しいかどうか判断するのは個々人の責任とされています。この点で、西洋宗教でみられるような助っ人の影響は弱いと言えます。なお、仏教は釈尊が始めたものですが、同様の思想・姿勢はすでにあったものと考えられます。これは、中国他のアジア地域に共通する観点・姿勢があったことからも伺えます。
ところで、現代インド社会は大方西洋的であると言えます。これは、インド北部の人種がコーカソイドであり、言語がインド・ヨーロッパ語族に属することと無関係ではないと思います。この点が、仏教が根付かなかった理由の一つでもあるでしょう。それに対し、近隣のネパール、ブータン、ミャンマー、タイ、チベット、スリランカと、インド東方の諸国は東洋色がより濃厚だと言えます。これらの地域で仏教が今も受け継がれていることと無関係ではないと思います。それにしても、世界が小さくなりどんどん現代化するにつれ、かつて東洋色が濃かった地域も西洋化してきています。世界中が西洋化してきていると言っても過言ではありません。
また、世界が現代化するにつれ、人間の使う「道具」が強力になってきています。火、言語、農業、重機、兵器、コンピュータ、インターネット、などなど。これらの道具は西洋思想の神々の助っ人たちにとっては必需品となっています。また、個々人にとって、神々に近づく手っ取り早い道具は財産や名声です。これもまた、神々の助っ人にとってはコントロールしやすい道具のひとつです。神々を崇拝する人々にとって、現代社会は格好の領土なのです。
これに対し、当人の言う東洋思想の根底には、神々の助っ人に頼らず自分の直接体験を重視する姿勢があります。そう言った能力を高めると、個々人にとって、財産や名声より重要なものが見えるはずです。しかし、このような傾向は必ずしも現代化に即しているとは言えません。いや、弊害とさえなりかねません。世界中で巻き起こっている経済競争のなかで東洋思想が有利な訳がないのです。それで、世界中の西洋化は免れないでしょう。問題の一つは西洋化は永遠に継続することはできないということです。それは、神々の助っ人たちが一般大衆の資源を奪い取ってしまうからです。これはガンが人体を蝕んでいくのに似ています。ガンに蝕まれた人が、通常、健康人より早く亡くなってしまうように、西洋化は、破綻への早道なのです。極端なことを言えば、西洋化は自殺行為だということです。
それでも、西洋社会のなかでさえも「ささやかな」東洋化の動きも見られます。中には、むやみな現代化に抵抗して、現状をもっとよく見極めようとする人々もいます。そして、そのような人々の集まりもあります。また、神々崇拝型の従来の企業に対し、直接体験を重視するような各種の「(消費者)協同組合」も発展してきています。世界的には、金融機関、住宅、各種小売業などに多く見受けられます。例えば、スペインのバスク地方から発祥したモンドラゴン協同組合企業は、神々の助っ人達から一般大衆を守ろうという運動の代表的なものです。残念ながら、そう言った共同体にも、それなりの問題はあるようですが。また、日本にも、「日本高齢者生活協同組合連合会」等、大変いい例があることに気が付きました。
昨今の世界は、現代化・西洋化の波に丸呑みされています。そのため、かつてインドで表現化した西洋・東洋の接点は、もはや消滅したかのように思えます。しかしながら、その接点は、世界各地の小さな拠点にところを変えて、依然ささやかに繰り広げられているようです。