
連載第12回 『ケアの贈与論』
現代社会を考えるうえで試金石となる「ケア」の倫理。明治大学教授の岩野卓司先生が「贈与」の思想と「ケア」とを結びつけ、「来るべき共同体」の可能性を根源から、ゆっくりと探っていきます。
第12回は「ケアの現象学」と題し、「気遣うとは何か」を考えることから始まります。その問いの先にある、通常の贈与交換でも単なる一方的な贈与でもない「根源的な贈与に対する応答」とはいかなるものか。パトリシア・ベナー、ハイデガー、鷲田清一さんなどの議論を「贈与論」として読み替えていく刺激的な試みです。
ケアの現象学
岩野卓司
ケアの定義としてよく引かれるのが、上野千鶴子が暫定的なものとして引用しているメアリー・デイリーの定義である。
依存的な存在である成人または子供の身体的かつ情緒的な要求を、それが担われ、遂行される規範的・経済的・社会的枠組のもとにおいて、満たすことに関わる行為と関係。
この定義が優れているのは、育児、介護、看護まで包摂したうえでケアの特殊性を示している点にある。単にケアといっただけでは、ある特殊な状況におかれている人たちへのケアの意味がでてこない。ケアとは、まずは依存する人との関係なのだ。それは大人か子どもかは問われない。幼児の場合もあれば、高齢者の場合もある。年齢に関係なく、障害者の場合もある。ケアとは、こういった依存する者たちの精神や身体の要求を満たしていく作業なのだ。そこには倫理的な規範や、経済の問題や社会がかかわっているだろう。まずは出発点としては、この定義からはじめるのがいいと思う。
これを前提にしたうえで、さらにケアという語を使う限り、この言葉のもつ意味を生かして掘り下げるべきであろう。他人に依存せざるをえない者たちを育てたり、介護したり、看護したりすることは、彼らを「世話する」ことだと言える。そして、この「世話すること」の根本にあるのが、「気遣う」ことなのである。いたわりながら接したり、配慮しながら関係をもつことは、他人を「気遣う」ことにほかならない。
1 「気遣い」としてのケア
「気遣い」は育児、看護、介護だけでなく、ひろくコミュニケ―ションにおいて、もっとも大切なもののひとつである。他人に配慮がなく、傍若無人にふるまう者は嫌われるだけであろう。ただ、日常生活において、僕らは物事を機械的に処理し、それで他者への配慮を欠くこともよくある。あるときは、利益などを計算しながら人を利用しなければならないし、またあるときは、冷静に観察しながら研究対象として他人を眺めたりもする。しかし、そういうときでも他者と関係をもつためには、「気遣い」が必要であることは理解できるであろう。他者との関係の中核には「気遣い」があるのだ。ましてや、ケアにおいて依存する人たちとの関係では、「気遣い」の重要さがとくにクローズアップされるのではないだろうか。
ケアにおける「気遣う」ことに関しては、現象学の研究がある。現象学は、エドモンド・フッサールが創始した哲学の方法で、僕らが生きている日常の知や科学の知識をそのまま信じ込まずに一度括弧にいれて、事象そのものに即して探究するやり方である。フッサールの場合は、意識へのあらわれに即して考えることがこれにあたり、その後継者のハイデガーの場合は、存在に即して考えていくことが現象学の探究であった。そして、看護や介護という事象に即して考えていくと、「気遣い」の重要さが見えてくるのである。
アメリカの看護師パトリシア・ベナーはジュディス・ルーベルとの共著『現象学的人間論と看護』のなかで、看護における「気遣い」の重要性を強調している。
まず、「気遣い」は、人が何が大事なのか、何に関心をもつのか、何にストレスを感じるかの基盤なのである。「もし人が何かを気遣う(care)のでなければ、何かの出来事がストレスになることはありえない。しかし同時に気遣いの本性は、そうしたストレスに直面して何らかの対処の仕方が自分のとりうる選択肢や受け容れ可能な選択肢として浮かび上がってくることにもある」。患者はこういった濃淡のある世界に生きている、ということを最初に認識しなければならないのだ。
また、介護したり看護したりする者たちも、「気遣い」を通して患者の関心、ストレス、病変などを読み取ることができる。「気遣い(caring)は患者へのどのような介入が助けになるのかを看護師に気づかせてくれるのであり、こういった関心がそれ以後のケアを導いている。気遣い(caring)のおかげで、看護師は患者における回復と悪化の微妙な兆候に気づくことができるのだ」。ケアする側も、患者への「気遣い」がないと多くの病変を見逃してしまうことになる。
ここから、「気遣い」が患者と看護師のあいだの信頼関係をつくっていることがわかる。医学知識や治療のテクニックは看護に関してもちろん重要である。しかし、それだけでは不十分である。「気遣う(caring)という関係は信頼の条件をつくり出し、ケアされる者はこの信頼という条件の下で初めて、提供された援助を受け入れることができ、気遣われている〔ケアされている〕と感じることができるのだ」。
この三つの条件について、ベナーらが「ケアすること(caring)」を「気遣い」の意味でとらえていることに注意しよう。ケアの根底にあるのは「気遣い」なのである。しかも、看護する者にとっては、「気遣い」は、テクニックや知識以上になくてはならないものである。看護師は、患者への「気遣い」を通して患者の微妙な兆候に気づくのだ。さらに、この「気遣い」を通して、看護師は患者と病気に関する意味を共有し、患者の関心や「気遣い」にも気づくことができるのだ。
ケアを「気遣い」と解釈し看護論を展開するベナーらのこういった考えの背景には、ハイデガーの哲学がある。この哲学者の大著『存在と時間』では、「現存在」(人間)の意味は「気遣い」とされている。「現存在」は、世界をただ眺めて認識しているだけの存在ではなく、世界のなかに投げ込まれている「世界-内-存在」なのである。「世界-内-存在」としての「現存在」は、世界で出会う諸々の道具に対しては「配慮的な気遣い」をし、他の現存在に対しては「顧慮的な気遣い」をし、これらの「気遣い」を通して道具や他者の意味を了解する。ベナーらはこの「気遣い」の考えを看護論に適用しているのである。
それでは、ベナーらのケアの定義から何が読み取れるだろうか。「気遣う」ことは、他者とかかわることなのである。しかも、他者を客体として取り扱うのではなく、何らかの意味の了解を通して交わることにほかならない。しかも、ケアにおいては、そこに信頼関係が生まれるのだ。ケアとは他者とのこういったかかわり方なのである。
2 「気遣い」と贈与
このかかわり方は贈与と関係があるだろうか。関係があると僕は思う。ただ、そのためには、ふつうに想定される贈与よりももっと根源的な贈与を考える必要があるだろう。
というのも、ふつう贈与について語る論理が、経済に即しているからである。少し遠回りになるが、根源的な贈与の必要性を、通常のケアと贈与の関係から説明していこう。
ケアが贈与と結びついて語られるとき、ふつう市場原理のそれとは異なるものとして想定されている。もちろん、保育士、介護士、看護師のようにケアに携わるプロの人たちは存在しているし、そういった人たちの労働に対価は支払われている。しかし、そういう職業の人たちも完全に市場の原理に支配されているかと言えば、そうとも言えない。というのも、ケアのなかには利益をあげるのとは異なる論理が求められるからである。そして、伝統的にケアの基盤となってきたのは、家族である。現在は家族を中心としたケアの体制には批判がある。大家族から核家族への移行、さらには単身者の増加、現代人のライフスタイルの変化に即していないというのも理由のひとつである。それにもまして、従来、育児や介護を家族のなかで担当してきたのが、娘であり嫁であったことから、ケアを女性の役割とみなす性差別が存在してきたからである。こういった批判を受けつつもなお、家族がケアの起点となっている。家族を補完するものとして、国や自治体の公共サービス、さらには民会会社や協セクターが存在するというかたちが依然としてとられているからである。ただ、公共サービスが不十分だからなおも家族が負担を強いられているとも言える。しかし、市場原理が大々的に介入しないのは、家族と国・自治体の協力体制が前提になっているからである。
ケアはまずは家族がするものだという暗黙の了解が、ケアと贈与の結びつきを強固にしている。ケアは自己犠牲や恩返しととらえられてきたのだ。育児は親による子供の無償の世話であり、介護は親に対する子供の恩返しと解釈されてきた。それとともに、国は社会保障制度を整えて、育児や介護の援助もおこなっている。これも贈与だろう。より正確に言えば、この贈与は国民の税金や介護保険料からまかなわれており、贈与交換である。国家の場合も市場において利潤を求める交換とは異なる原理が働いている。
このようにケアが家族を基盤とし国家が補うという考え方からは、ケアは献身や自己犠牲といった一方的な贈与が理想とされ、現実は理想通りには行かないから交換で補っているという考えが生じるだろう。国家による贈与交換、さらには利潤を求める市場における交換がそれである。
しかし、先ほどの「気遣い」のケアをよく考えてみると、一方的な贈与の理想は贈与する者の側からの表面的な理解の産物に過ぎないことがわかる。ケアを「与える-与えられる」といった一方的な関係としてとらえることは、得てして独善的な結果を招く。この連載でも何度も強調したように、看護する者の善意からくる一方的な贈与が看護される者を潰してしまう可能性もあるのだ。ベナーらがハイデガーを参照しながら主張する、患者への「気遣い」は、患者の関心や「気遣い」に注意しそれに気づいて対応することでもある。そうすることによって、両者の関係は一方的なものではなく、共通の意味の了解に基づいている双方向的なものになるのだ。だから、ケアをする者が精神的にも物質的にも多くの贈与を患者にもたらすにしても、これは患者の側からのより根本的な贈与に対する応答なのである。
ケアへの関心が強い鷲田清一は『〈聴く〉ことの力──臨床哲学試論』のなかで、「〈聴く〉という、他者のことばを受け取る行為、受けとめる行為のもつ意味」を考察しながら、そこから哲学の可能性について考えようとする。彼は次のように述べている。
聴くことが、ことばを受けとめることが、他者の自己理解の場を劈くということであろう。じっと聴くこと、そのことの力を感じる。かつて古代ギリシャの哲学者が《産婆術》と呼んだような力を、あるいは別の人物なら《介添え》とでも呼ぶであろう力を、である。
他者の言葉を受けとめることは、ソクラテスの産婆術の力を得ることになる。聴き受けとめることは、他者の自己理解をたすけるのだ。相手は聞いてもらうことで、自分の至らなさを悟ったり、自分の希望に目ざめたりするのだ。これはケアの場合にも言える。高齢者や障がい者の話を聞く傾聴ボランティアは、自分の主張を相手に押し付けるのではなく、相手の言うことを共感をもって受けとめる。そこには相手への「気遣い」があり、お互いの意味の共有がある。これを贈与論の視点から言いかえれば、他者の言葉の贈与を受けとめて、こちらも応答という贈与をすることが、他者の自己理解を助けることにつながる、と言えるだろう。
だから、ケアと贈与の関係について考察するためには、通常の「与える-与えられる」の関係からではなく、もっと根本的な贈与の連鎖から考えていかなければならないだろう。
連載第13回(最終回)は、2025年3月28日(金)公開予定です。
註
(1) M. Daly, ed., Care Work: The Quest for Security, Geneva, International Labour Office, 2001, p. 37, 上野千鶴子『ケアの社会学 当事者主権の福祉社会へ』太田出版、2011年、39頁からの引用。
(2)P. Benner and J. Wrubel, The Primacy of Caring Stress and Coping in Health and Illness, California, Addison-Wesley Publishing Company, 1989, p. 1,『現象学的人間論と看護』難波卓志訳、医学書院、1999年、2頁。
(3)Ibid., p.4, 同、5頁。
(4)Ibid., 同、6頁。
(5)マルティン・ハイデガー『存在と時間』原佑・渡辺二郎訳、中央公論社、1980年、135–382頁。またベナーは、メルロ=ポンティの影響のもとで「身体」に関心を持ち、看護における「身体的知性」について論を展開している。
(6)鷲田清一『〈聴く〉ことの力──臨床哲学試論』ちくま学芸文庫、2015年、14頁。
*訳文・訳語に関しては、既訳と一致しない場合もある。
執筆者プロフィール
岩野卓司(いわの・たくじ)
明治大学教養デザイン研究科・法学部教授。著書:『贈与論』(青土社)、『贈与をめぐる冒険』(ヘウレーカ)、『贈与の哲学』(明治大学出版会)、『ジョルジュ・バタイユ』(水声社)、共訳書:バタイユ『バタイユ書簡集 1917–1962年』(水声社)など。
↓ 第1~11回の記事はこちらから