書評:夢をかなえるゾウ4/死を意識することで生を輝かせる/遺書が書きたくなる本/究極の自己啓発/女の子との遊びより自己投資を優先したくなる本

「死を意識することで生が輝く」「死ぬ直前に、後悔しないように生きるべき」「人生は一度きり」「時間の使い方は、命の使い方」

人生で一度は聞いたことのあるこれらの言葉たち。しかし、これを心の底から理解し、実践できている人がどれくらいいるだろうか。

かくいう僕は全く実践できていなかった。もちろん言葉自体は昔から知っていた。
ただし、分かっていることと、実際に行動で表現することは全く違う。上記の言葉に触れるたび、心の中では頑張ろう、と思う。死を意識して、生きていることに感謝して日々を精一杯悔いなく生きよう、うんうん、と。

でも実際の生活はどうか。朝起きるとついYouTubeのアプリを開き、お笑い芸人のネタ動画を見たり、なんとなく自己啓発っぽいけど内容のうっすい動画を再生したりしている。そしてこのままじゃいけない、時間は有限なんだから、起きて行動しよう!と思って立ち上がったのもつかの間、

・・・腹減ったな。

という感情に支配され、気付いたらパスタを茹でている自分がいる。
そして茹でている間耳が暇なので、
「すべらない話トーク集⑫」みたいな動画を再生する。
パスタを食べ終わったら食後の眠気でベッドに横になる。気持ちだけは焦っているから読書でもしようと思うけど、4ページも進む前に睡魔との戦いに敗れ、夢の中へレッツゴー。サイコロで自分の名前が出て、精一杯トークをする夢だ。起きて気が付くと、もう時刻は16時を回っていて外は暗くなり始めている。

「あぁ、俺はなんて無益な一日を過ごしてしまったんだろう・・・。」

そう思いながら、夕飯を求めて近くのスーパーに繰り出す。
こういうことは少なくない。読者のみなさまも、こういった日を経験されたことは一度はあるのではないだろうか。

死を意識することで生を輝かせるとか、時間は有限なんだとか、
言葉では理解していても、実際の生活に落とし込むことはとても難しい
少なくとも僕にとっては難しかった。


なぜなら、現代人にとって「死」がとても遠い存在だからだ。
普通に生きていて、突然死ぬ確率はとても低い。急に物陰からライオンが出てきて襲われることはないし、コンビニに行けばとても安く食物が売っている。どんなに貧乏になっても、生活保護というセーフティネットも用意されている。医療もとても進んでいる。
どれだけ冒頭の言葉たちを目にしても耳にしても、「死」のリアリティが感じられず、僕にとっては行動を変えるまでの原動力にはなり得なかった

しかし、そんな情けない人間の僕に、衝撃をぶちこんでくれた本がある。
それが「夢をかなえるゾウ4」だ。​

書きたいことが多すぎて、全部書いたらそれこそもう一冊本が書けてしまうくらいの文量になってしまう気がする。
ので、断腸の思いで今回書く項目を絞った。

・人間とは、石である

・「死」は存在しない

・人間が「死」の苦しみを受け入れた理由

明日からの、いや、今日からの時間の使い方が変わること間違いなしの良著であった。僕は最近この本を読んでからというもの、行動にキレが増していて感動している。
本当に自分が心の底からやりたいと思えること以外の事象は人生から排除できている。YouTubeでお笑いをみることはもちろんのこと、女の子からのお誘いも、今までなら内容を見る前にとりあえずOKしていたが、今回はお断りさせて頂いた。それくらいのインパクトがある本だった。
早速見ていこう。

・人間とは、石である。

この話は、僕に新しい視点を与えてくれた話だ。
書評っぽい書評をする気がないのが僕の書評の特徴であるが、今回もストーリーにはちらっと触れる程度に留める。
ざっくりのストーリーは、突然余命3ヶ月と宣告された妻子持ちのサラリーマンが、ガネーシャという神様に出会って、残りの期間をいかに過ごすか、どう死んでいくべきか、後悔しないために、考え、実行していく話だ。


公園で主人公が「人は死んだらどうなるのか?」と、神様のガネーシャに尋ねるシーンがある。そこでガネーシャは、「自分、これ何か分かるか?」といって、目の前に落ちていた石を主人公に見せる。

主人公「・・・石ですよね?」
ガネーシャ「じゃあ、この石があのすべり台くらい大きかったら何になる?」
主人公「岩ですかね」
ガネーシャ「じゃあこれは何や?」
主人公「・・・砂、ですね」

ここでガネーシャは続ける。
「元々大きかった岩が、川の流れや雨なんかによってちょっとずつ削られていって、石になる。その石もまた様々な要因によって形を変え、砂になっていく。つまり岩も石も砂も元の物質は同じ。それが岩なのか、石なのか、砂なのかというのは、勝手に人間が決めているだけの話なのだ。


じゃあ、人間はどうか。
「生きている」「死んでいる」はどこで分かれるのか。
どこからがその人で、どこまでがその人なのか。

人間も、石の様なものなのだ。

どこからがその人なのか。お腹の中にいるときはまだその人じゃないのか?いや、胎動なんかもあるし、そこでは既にその人か。では、受精卵の段階からその人なのか?人の形を成していないけど、人と呼べるのか?あるいは卵子と精子の状態まで遡るべきか?

どこまでがその人なのか。交通事故にあって、意識がなくなったらもうその人ではなくなる(=死)なのか?医者が「ご臨終です」という瞬間からその人はその人でなくなるのか?
交通事故にあって意識不明の重体となった人でも、奇跡的に息を吹き返すことはいくらでもある。この場合、一回死んで生き返ったということになるのか?すると人は死んだり生き返ったりできることになるが、果たしてそうなのか?

とこのように、どこからその人でどこまでその人なのか、というのは線引きをするのがとても難しい。ましてや自分、そして自分の親族となると話はさらに複雑になるだろう。死んだ、と認めるのはとても苦しいことだからだ。

そもそも、線引きなどしなくて良いのだ。」

ここでガネーシャは魔法を使い、目に映るもの全てを、それを構成している粒子のレベルで見えるようにする。
すると、今見ていた石も砂も、子供が遊んでいる遊具も、遊んでいる子供も、木も、草も、全てが等しく同じ水色の小さな球体の集合体(粒子)であることが分かる。
主人公はここで、足元にいたダンゴムシを拾う。水色の球体の集合体である自分の手の上に、これまた水色の球体の集合体であるダンゴムシが乗っかっている。事前に、ダンゴムシが乗っかっている、という理解をしていなければ、もはやこの2つのものに差はなく、不可分一体のものに見える。
ガネーシャはこう続ける。

「土に還るという言葉がある。昔の人間は本当に物事の道理をよく分かっている。世の中の全ての物質は同じ粒子からできていて、その粒子が形を変えてそれぞれに役割を持ち、この世に存在している。

そしてそれは人間も同じ。

最初の『死んだらどこにいくのか』という問いに対する答えは、「形を変えて他のものになる」という答えになる。死んだあともその人を構成していた粒子は形を変え、他の何かを構成する。無くなることは決してない。今、君の手のひらにあるダンゴムシを構成する粒子も、巡り巡っていつか人間を構成するだろうし、君の粒子も巡り巡って今度はダンゴムシにだってなりうる。
こうして、全てのものはつながっている循環している。つまり、

「死」は、存在しない。

と、ガネーシャは主張する。これ、衝撃的な話でした。
「死」は存在しない。
とても冒頭で「死を意識したほうが良いっぽい」と言っていた記事とは思えない。そもそも死という概念を否定してしまうのだから。

僕にとってはちょっとスケールの大きすぎる話だったので、正直、読んだ直後は自分の言葉に落とし込むことが難しかった。

「死」は存在しない。世の中のものは全て同じ粒子でできていて、循環している。死んだあとどこにいくのか、という議論は存在せず、そもそも全部がつながっているのだから、生まれるとか死ぬとか、そういう概念が存在しないのだ。

僕はこの手の、スケールがでかすぎる話を聞くと、地球儀を眺めているような気分になる。あるいは、グーグルマップを思いっきり縮小した時のような気分だ。つまり、「自分ってめっちゃくちゃちっぽけな存在だな」と感じるのだ。
自分が日々感じていることなんて、この世の理(ことわり)に比べたら米粒より小さい、いや、それこそ粒子くらい小さいことなんだなと感じる。

自分が何をしようと何をしまいと、世の中を支配する絶対的な法則には何の影響もない。
・・・・あれ。おかしい。

この理論を進めていくと、究極的には「生きていても意味がない」とか、「頑張っても頑張らなくても意味がない」とかの結論に向かってしまう。


それでは今を生きている我々の人生には意味がないのか?
所詮この世を構成している粒子の集合体にすぎない我々は、粒子が前の形から次の形を構成するまでのつなぎ役でしかないのか?

否。

人間は、「経験」をするために存在しているのだ。

先程の石の話を振り返ってみると、不思議な点がある。

昔の人は死ぬことを「土に還る」と表現し、それはまさに世界中、地球上のすべてがつながっていることを端的に表している言葉だ。
そしてその考え方によれば、死は存在しないのだから、死を恐れることもまったく必要ない。
なのに人間は、「あえて」生と死を明確に認識しようとし、それゆえに死の恐怖に怯え、苦しまねばならなくなっている。
それは、なぜなのか。

答えは、「経験」をするためだ。

先程述べたとおり、世界中のすべてのものが同じ粒子でできていて、自分なんて所詮つなぎ役でしかないのだ、と考えてしまうと、
何もする気が起きないし、何の楽しみも得られない。

そうではなく、

「死」という圧倒的な苦しみを認識することで、

その対照的な事象である「生」における喜びを、

初めて感じることができるのだ。

周りが見えなくなりやすい人は、裏を返せば一つのことに集中することが得意と言える。
短所の裏返しが長所になるように、苦しみの裏には喜びがある。

つまりこういうことだ。
人間は、あえて「死」というものを明確に認識し、その存在を認めることで、対をなす「生」における喜びを見出だせるようにしたのではないか。
そしてそれは、人間以外の他の「粒子の集合体」には成し得ないことだろう。水や草や花、石にはできないことだ。
これこそ、我々が人間として生まれてきたことの尊さなのではないか。

まとめると、

「死」自体は過度に恐れる必要はない。世の中の全ての物質は同じ粒子でできていて、つながっている。「死ぬ」のではなく、「形を変える」だけなので、その人が消えてしまう訳ではないからだ。


しかしながら、僕たち人間はもう「死」が存在しない、と考えることは難しいだろう。なぜならば、「死」に関する苦しみ、つらさを「あえて」認識することで、「生」における喜び、楽しみを認識できるように、脳内にインプットされてしまっているからだ。


僕たちが花を美しいと思えるのも同じ考え方ができよう。
花束をもらうことは、とても嬉しいことだ。しかし、もらった花束が造花だった場合、その喜びは半減しないだろうか。それはなぜなのか。
話の流れ的にお分かりかと思うが、それは僕たちが「花はいつか枯れてしまう(=死ぬ)もの」と認識しているからだろう。
「リアルな花はいつか枯れて散っていってしまう(死んでしまう)ものである」と「あえて」認識することで、その花に儚さを見出し、美しさを感じることができるのだと思う。それは丁度、いつか死んでしまう「人間」に対して、尊さを感じるのと同じ様に。


しかし、造花は死ぬことがない。人間は、死ぬことがない造花には、儚さ、美しさという喜びを感じることができないのだ。なぜなら、喜びの裏には苦しさが存在するはずであり、造花にはその苦しさ(=死)がないからだ。

花は、散るからこそ美しい。

同じく人も、死ぬからこそ生を全うできる。

こう改めて考え直した時に、僕の心には一つ良い発想の転換があった。

「どうせ俺なんて、ただの粒子の集合体でしかないのだから、どう生きたって、もうなんでもいいや」ではなく、

「粒子の集合体の中でも奇跡的に、感情を持った「人間」という形になれたのだから、最大限生の喜びを感じられるように生きていこう」

というふうに思えたのだ。

「どうせいつか死ぬから」でなく、
「せっかく生きているのだから」なのだ。

日常生活に追われていると、つい目の前の仕事に追われて、ゆっくり考え事ができなかったり、些細な人間関係のことでつまづいて延々と悩んでしまったりする。しかし、それはとても勿体ないことだ。
せっかく、粒子集合体界隈でも大変希少な「喜び」を感じられる集合体になれたのだから、それを最大限楽しむ以外の選択肢があるだろうか。

僕たちは、本当に奇跡的な確率で今この世界を生きている。目に見える範囲でも元を辿れば、精子と卵子だったわけだ。それがくっつくだけでも奇跡的なことだ。そのきっかけを作ってくれた両親には、いくら感謝してもしきれない。これは誰にも否定することはできないだろう。

ちょっとだけ脱線するが、もちろん親から虐待を受けて、心に大きな傷を負ってしまった人もいるだろう。そんな方に「親を愛せ!」とは言えない。しかしながらそれでも、その両親が生んでくれなかったらその人はこの世に存在しなかった、という事実だけは、誰にも否定できない事実だ。


もっと前に遡れば祖父母が両親を生んでくれなかったら僕たちは存在していないし、曾祖父母が出会っていなければ・・・だ。
そしてその僕たちが今同じ時代に生きていて、同じ記事をこうして共有できていること。
ビッグバンが起きたことが奇跡なのはまず間違いないが、毎日ビッグバン級の奇跡が起きているよな、と僕は思うのである。

毎日の奇跡に感謝して、
人間として生きられていることに感謝して、
毎日を楽しんで生きていく。

僕たちがすべきことは、これだけなのだろう。
せっかく感情のある「人間」に生まれてきたのだし、
僕は毎日、喜怒哀楽を目一杯感じて生きていきたい。

僕は今、いつものカフェで、いつもの可愛い店員のみなみちゃん(仮名)の前でこの記事を書いている。
こうして数百円払うだけでみなみちゃんに会える。なんて嬉しいことなのだろう。目があっただけで喜びが湧き上がってくる。楽しい。
ああ、人間に生まれてきてよかった。
お母さん、お父さん、ありがとう。
そのうちここで、みなみちゃんに対して、残りの感情である怒と哀も経験することになるのだろう。
彼氏がいることが判明するとか、めちゃくちゃコーヒーこぼされるとか。
でも、それで良いと僕は思う。
そうやって喜怒哀楽を感じられるのが、人間に生まれてきた意味なのだから。

・・・コーヒーこぼされるのは、

逆に「喜」

だな・・・。

をはり。


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