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今までの"はたらく"。これからの"はたらく"。

はたらくって何だろう。立ち止まって考える。

僕にとって、はたらくこととは、即ち"生きるために動くこと"または"活きるために動くこと"である。ここで、"生きる"または"活きる"と表現したのには訳がある。順を追って深堀したい。

予め断っておくと、"生きるために動くこと"と"生きるために動くこと"のどちらが良いのか、という議論をするつもりはない。

旧来のはたらく

まずは、旧来のはたらくについて考える。

例えば16世紀-18世紀の西洋。宗教改革にピューリタン革命。社会と宗教には強固な関わりがあった時代。そこでは、仕事に対するパラダイムシフトが起こった。マックスウェーバーの著書に、こんな記述がある。

富が危険視されるのは、ただ怠惰な休息や罪の快楽への誘惑であるばあいだけだし、富の追求が危険視されるのも、他日煩いなく安逸に暮らすためにおこなわれるばあいだけで、むしろ〔天職である〕職業義務の遂行として道徳上ゆるされているだけでなく、まさに命令されているのだ。(マックス・ウェーバー, 1920)

つまり、この時代の西洋におけるプロテスタントは、"働くこと"には宗教的な裏付けがある。"働くこと=宗教的に善いことをする"という時代だったのである。

近代。高度経済成長期の日本における"働くこと"を考える。様々な産業が興り、日本の名が世界に轟きはじめた。日本人の勤勉な性格から、海外ではあまり考えられないような労働への注力と、それに伴う産業規模の拡大が起こった。"男は仕事、女は家庭"という生物学的性別により、自分の役割が決まっていた。そんなことが当たり前だった。"働くこと=家族を食わせること"という時代だったのである。

ここまで、全く異なる時代背景の"働く"について考えた。社会の動きと個人の仕事は密接に関係している。生きる時代によって働くことの定義が変化する。だからこそ、変化の絶えない現代において、"働くとは何だろうか"と考えることが大切になる。

読者:「いやいや、本題に入るの遅くないスか?!」

生きるために動くこと

人が動く=働く。漢字の成り立ちは直観的で分かりやすい。特に、ITインフラが無かった時代は、体を動かすことが働くことと同義だった。つまり、全人類が肉体労働者だった。

体を動かすことにはエネルギーが必要だ。当然、気分が乗らないときもある。でも、働かなければ、やがては死んでしまう。だから働く。そんな時代があった。

抽象化すると、"働くこと="生きるために動くこと"と定義できる。語弊を恐れずに言うならば、"自分の嫌なことをすることで、お金を稼ぐということ"である。2ちゃんねる創設者の"ひろゆき"さんの言葉を拝借する。

そもそも仕事って、誰かがやりたくないことを代わりにやって、お金をもらうという場合が多いです。それに、「やりたいこと」や「天職」なんて、自分ではなかなかわからない。すごくやりたかった職業でも、実際就いてみたり、しばらくやってみたりすると、なんだか思っていたのと違うな...なんて、よくあることです。(ひろゆき、2019)

みんながやりたくないことをやるから、そこには対価が発生するのは至極当然な話。だから、"働くこと="生きるために動くこと"という定義は妥当である。

活きるために動くこと

続いては、"活きる"ことについて。

現代は"精神の時代"と称される。先進国の日本に生きる多くの人は、物質的に満たされている。体は十分満たされる時代なのだ。でも、人は悩むし不幸せになる。"心が満たされていない"と感じる人は、多いのではないだろうか。

そこで、現代では"やりたいことで生きていく"という価値観に魅せられる人が多い。多くの人が目指すのは、今や"働くこと=活きるために動くこと"という定義に則った仕事。活きる=精神的なバイタリティにあふれる

スマホやSNSが普及する以前、自分と比較するのは周りの人であった。つまり、自分と似ている人との比較が大半の時代であった。

現代においては、自分とは全く異なる境遇の人を知る。地球の裏側にそのヒトがいても、昔の人でも。だから、"自分とあの人"という構図で比較することが増え、劣等感に苛まれたりする。
・自分の人生ってこんなものなのか?
・あの人は楽しそうに働いている。私は仕事を楽しめない。

技術的進歩という社会の動きが、"働くこと=活きるために動くこと"という定義を生み出したといっても過言ではない、と僕は思う。

生きると活きるが統合されるとき

孔子の言葉を引用する。

子曰(のたま)わく、吾十有五(じゅうゆうご)にして学に志し、三十にして立ち、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳従(したが)う、七十にして心の欲する所に従いて矩(のり)を踰(こ)えず。(孔子、論語)

注目したいのは、"五十にして天命を知る"こと。これはどういうことか。それは、"生きること"と"活きること"が統合されることだと思う。あくまでも僕なりの解釈である。仕事を極めると、肉体を生かすこと、心を活かすことが同時に達成される。そんな状態に至る道は、きっと地続きである。だから、いまこの瞬間もやるべきことはやらなければならないし、やりたいこともやはりやるべきなのだと思う。

おわりに

多様化の時代に"はたらく"ということ。そこには、個々人のはたらくに対する"自分なりの考えを持つ"ことが重要である。自分の考えがないと、他人の考えに染まってしまうだけである。

移り行く時代に"はたらくを問い続ける"。それが、"生きること"と"活きること"を繋げる、結局の近道なのかもしれない。ヒトは、幸せになるように設計されてはいないから。

#はたらくってなんだろう

参考文献

マックス・ウェーバー (1920)、プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神、訳) 大塚久雄 第41刷(2007)、株式会社 岩波書店、第2章 禁欲的プロテスタンティズムの天職倫理、p310-311.

ひろゆき (2019)、凡人同 役満狙いしないほうが人生うまくいく、株式会社 宝島社、「好きなことで、生きていく」という考えに囚われない、p63-64.​

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