価値観についての私見を述懐する。かのアインシュタインは「常識とは18歳までに身に付けた偏見のコレクション」との至言を残している。人は様々な経験を経て、種々の価値観に触れていくにつれ、自分の中の「普通」という考えが形成されていき、「普通」と言う名の円が拡張されていく。だが、年齢が上がるにつれて人間関係は固定化されていき、新たな価値観との逢着が少なくなった結果その円の拡張は無くなり、円から逸脱した考えや価値観への理解ができなくなる。そして、円の外にいる人間に対して「普通ではない」
姦しい蝉吟と扇風機の生温い風が鬱陶しくなり目を覚ました。甘い物で腹を満たしたような、うざってえ満腹感と似た気分だ。陰鬱な気分の中、最寄駅への隘路を注視して歩いていると、蝉蛻が散見できることに気付く。先程は蝉を謗るような言い方をしたが、彼らは7年もの期間土の中で耐え続け、僕よりも早起きをして世に出てきたんだと考えると、急に畏敬の念を抱き始める。閑話休題。私事になるが、1か月後には大事な資格試験がある。昨年は及第点に1点及ばず辛酸を舐める結果となった為、捲土重来の精神で発奮し、1
「早起きは三文の徳」という俗諺は夙に知っていた。夏休み中の早起きを推奨する為、蝉の声をBGMに先生が詠唱していたのを覚えている。至純だった僕は、それを早起きの素晴らしさを啓蒙する俚諺だと解釈していたのだが、年を経るにつれて「二束三文」「三文芝居」「三文小説」という言葉を知り、三文は大したことない額だということに気づいた。やがて社会人になり、否が応でも早起きしなければならなくなった。8時発の電車でも間に合うのだが、面心立方格子構造顔負けの充填率の高さに辟易し、7時の電車に乗るよ
高田馬場駅前のロータリーには唯一の喫煙所があるゆえ、ニコチン補充目的の若者らが跳梁跋扈している。終電間際にそこを通れば、酩酊した彼らのおかげでドップラーシフトを体感させてくれる。滔々と流れる有象無象の人波に抗い、留まり続ける三角州のようなその場所は、彼らにとってのシャングリラなのだろう。猥雑とした空気と紫煙が揺曳しており、地面にはニコチンの残滓が散らばっている。唾棄すべき傍若無人な挙措には、孟母三遷を再認識させてもらえた。しかしながら、こう思ってしまうのは青春を謳歌している学
警察も裁判官も宰相も奇特な人間とは限らない。殊勝なのはその制度である。下賤な人間達が欲を捨て、精一杯善意を振り絞ってできたものが法律であり、それに従い健気に働いているだけである。性善説など詭弁に違いない。
電車内で座っていると、睡魔に襲われた隣席の人間から傾倒されることが往々にしてある。私の肩が寄りかかるのに至便だからというわけではなく、ベンチに座っている人間は猫も杓子も眠っているのである。元来、生物にとって睡眠の時間は無防備極まりなく、ややもすれば命の危険すらある。それにも拘らず赤の他人に身を委ね、微睡む姿に懐疑の目を向けてしまう。羽毛の布団より筋繊維の肉塊の方が眠りやすいんだろうか。彼らにとって、ゼロ距離で他人と接触する車内は不可侵の安寧の地なんだろうか。昼休みには黒甜郷裏
電車内には鬱屈と厭世と食傷の空気が揺蕩っている。漫然とした日々を過ごそうものなら、自らもその空気に飲み込まれてしまいそうだ。ただでさえ狭隘とした車内に有象無象の人間が乗り込んでくるものだから、その空気も圧縮されている。冬になり気温が下がれば凝縮でもするんじゃないだろうか。その凝縮した液体に触りたいとは思わないが、分留したらどうなるのかは気になる。何の成分が多く採れるのだろう。私は「倦厭」だと予想する。