普通とは…

価値観についての私見を述懐する。かのアインシュタインは「常識とは18歳までに身に付けた偏見のコレクション」との至言を残している。人は様々な経験を経て、種々の価値観に触れていくにつれ、自分の中の「普通」という考えが形成されていき、「普通」と言う名の円が拡張されていく。だが、年齢が上がるにつれて人間関係は固定化されていき、新たな価値観との逢着が少なくなった結果その円の拡張は無くなり、円から逸脱した考えや価値観への理解ができなくなる。そして、円の外にいる人間に対して「普通ではない」と考え、その考えを盾に幻滅や嫌悪をし、あまつさえ指弾してしまう。学校でいじめが起こるのは、経験値が低く円が狭隘であるゆえに、自分の円の共通集合部分の人間が普通だと誤認し、円の空集合にいる人間の価値観を排しても良いという免罪符を得るからではないだろうか。畢竟、自分の円を敷衍することができれば、殊勝な人間になれるのだと思う。しかしながら叙上の考えでは、その考えを持っていない人間の意見を排しており、平仄が合わない。結局、重要なのは円の広さではなく、清濁併せ呑める心の広さなのか。

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