異界駅日記3 『は××えん』駅
2022/04/19
せっかくあたたかい春の日なので、パーカーのポケットに岩波文庫の『滝口入道』を入れて家を出た。
朝は通勤通学でごった返すいつもの電車も、平日の昼間に乗客はほとんどいない。悠々と座って車窓から桜を見た。何度桜を見ても、本当にそこに桜が咲いているとは思えない。
桜ほど現実味のない花はないと思う。坂口安吾の「桜の森の満開の下」の桜の描き方がいちばん自分の中の桜に近い。
陽光であたためられた座席に身を沈めて、高山樗牛の『滝口入道』を開く。私の知る限り、これは最も美しい文章であり、最も美しい物語だと思う。
運命に翻弄される人間の姿は、哀しくて美しい。前に先生にこの小説で感動したことを伝えたら、「きっと文体が雅文だからじゃない?」と言われたけれど、それだけじゃないはずだ。
車内があたたかくて、文庫本を膝に置いてつい微睡んでいると、数分してゆっくりと電車が止まる気配がした。片目を開けて確認しようとしたら、右側の降り口のドアが開いた。
ホームの方を見ると、一面桜色だった。おびただしい桜が咲いていた。というよりも、桜しかない。
いつまでも電車が動かないので、駅に降りて歩いてみることにした。昨日、QRコードで鳴き声を聴ける図鑑で調べた、メジロの鳴き声だけが聴こえる。
歩いても歩いても、桜、桜、桜。だんだん焦ってくる。何だか怖くなってくる。音がしない。無音で桜が散っていく。
桜はぱっと咲いて急いで散っていくから、死を連想せずにはいられない。怖いくらいに花弁が散っていく。怖い。何も怖いことが起こらないのが怖い。今は何も怖いことが起こっていないだけで、これから起こる気がしてくる。
すっかり方向感覚が失せてしまって、桜の下に座り込んだ。そのとき、ヒュー、と笛のような音がした。
じっと聴いていると、間隔をあけて何度も聴こえてくる。人がいるのかと思って音のする方に歩いていくと、開けたところに出た。
そこには私よりも大きなトラツグミがいた。
見つけた、ではなく、見つかった、と思った。