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なぜ、「かたち」あるものにこだわるのか 〜「おとなの発達障害」について(その3)

前回、「ASD(Autism Spectrum Disorder、自閉スペクトラム症)」の傾向の高い人は、口頭でなにかを伝えられることが、なぜ苦手なのかを考えました。今回は、さらにその延長として、なぜASDの傾向が高い人は、「かたち」あるものにこだわるのかを考えてみたいと思います。ここでいう「かたち」あるものとは、後ほど詳しく説明しますが、その輪郭や意味が「はっきりしているもの」のことを指します。

「発達障害」や「自閉」という言葉の問題点

現在、「ASD(自閉スペクトラム症)」イコール「発達障害」と考えている方も多いようです。しかし正確に言うと、これは間違いです。あくまで、ASDは「発達障害」と呼ばれるもののひとつだからです。それと同時に、「発達(の)障害」という言葉は、人はこのような発達(成長)をするものなのだという考え方(「定型発達」)を前提にしている点で、大きな問題を抱えています。

さらに言えば、わたしはASDの最初のA(Autism)を「自閉」と訳すことにも問題があると思っています。Autismという語には、「自分」という意味はあっても、「(他者に対して)閉じる」とか「(自分に)閉じこもる」いうような「閉」の意味はないからです。ASDを訳すのであれば、たとえば「自分スペクトラム症」とか、「自立スペクトラム症」と訳すのがよいのではないかと思っています。以上のような理由から、表題にはわかりやすく「おとなの発達障害」という言葉を使っていますが、以下では「発達障害」や「自閉スペクトラム症」という言い方は使わず、すべて「ASD」という言い方で統一したいと思います。

「おかしいじゃないですか、勝手に午後に変えるなんて」

今回は、こんな話から始めたいと思います。

ある朝、Aさんが職場に出勤すると、上司である係長のBさんに、「Aさん、悪いけど、今日の午前の課長との打ち合わせ、午後に変わったから」と言われました。ASDの傾向が高いAさんは、その言葉にちょっとむっとして、「なぜですか。昨日までそんな話、なかったですよね」と言いました。「わたしだって、さっき課長に言われたんだ。C課長との打ち合わせが、午前に入ったんだそうだ。14:00くらいなら良いそうだ」と、まるでそれが当然のことのように答えました。その言い方にさらにむっとしたAさんは、「おかしいじゃないですか。先週、課長の方からこの話があって、係長が課長とスケジュール調整して、今日の10:00になったんですよね。だったら、C課長から話があった時に、課長は、ここはもう先週から予定が入っているからと言って、午後に回してもらうべきじゃないですか」と言いました。

係長は、Aさんの言葉にカチンときて、「いいじゃないか、午後だって。半日、準備の時間ができたんだ」と、いらつきながら言いました。「違うんです。今日の午後は別の仕事をすることに決めているんです。おかしいじゃないですか、勝手に午後に変えるなんて。なんで、係長は、さっき課長がそう言ってきた時に、もう変えられないと言ってくれないんですか」とAさんは、本気で怒りながら言いました。それを聞いて、係長は、「ふざけるな、そんなこと言えるわけないだろう。バカか、お前は」と言いました。それを聞いてAさんは、「係長、その言葉はパワハラですよ。人権侵害です」と叫びました。

ふたつの「あたり前」がぶつかり合っている

このAさんとB係長のトラブルはどこから生まれているのでしょうか。B係長は、上司である課長が、午前はダメだと言うのなら、部下である自分もAさんもそれに従うしかないと思っています。ところが、課長と自分が決めたことに従わず、自分のスケジュールなどを口にするAさんは、そんな「あたり前」の職場の「常識」がわからない、とんでもなく自分勝手で、わがままで、生意気なの人間に思えてしまうのです。そんな係長に対して、Bさんは一度決めた予定を、自分の都合で一方的に変えることは、たとえ上司の課長でも許されないことだと思っています。「約束は守らなければならない」ということは、上司か部下かなどには関係のない、人として「あたり前」のことであり、人の「常識」だと思うからです。

なぜ、スケジュールが変わると当惑するか

一般に、ASDの傾向が高い人は、急にスケジュールが変更されたり、ルーティーン化した週の予定や日課を変えられたりすることに、ひどく当惑する傾向があると言われています。また、次々に変わっていく状況に合わせて、柔軟に対応することが苦手だとも言われます。では、それはなぜなのでしょうか。

一般に、ASDの傾向が高い人は「こだわりが強い」ということは、よく言われることです。しかし、それがどうしてなのかは、あまり説明されていません。実際のトラブルと、そのような傾向に対する工夫だけが問題にされていますが、どうしてそのような傾向が生まれるのかは、なおざりのままです。しかし、なぜ、「こだわり」が強いのかがはっきりしなければ、「そんなことにこだわる方が悪いんだ」という考えが生まれて、職場などでの対策も、形だけのものになってしまいがちです

ASDの傾向が高い人は、どうして「こだわりが強い」のか。わたしの考えでは、それは、ASDの傾向が高い人が「かたちのはっきりしたもの」を好んで、それを受け入れる傾向が強く、逆に「かたちのはっきりしないもの」「あいまいなもの」「どんどん移り変わるもの」をとらえることが、苦手だからです。

「かたちのはっきりしたもの」とは

「かたちのはっきりしたもの」とは、どういうものでしょうか。ここでいう「かたち」とは、「他のものとの境界である輪郭」のことです。たとえば、流れる川でいえば、流れる川の水(液体)よりは、その水の上に顔を出している石(固体)の方が、「かたち」がはっきりしています。

「かたち」は目に見えるものだけではありません。目に見えないものにも、「かたち(他のものとの境界)」はあるからです。たとえば、言葉ならば、話した音声より書いた文字の方が、「かたち」がはっきりしています。会話の場面ならば、話をしている時のその場の雰囲気や、話している人の表情などよりは、その人の言った言葉の方が、「かたち」がはっきりしています。(言った言葉は、すぐに文字(かたち)に変えることができますが、雰囲気や表情はそう簡単にはいきません。)

「はっきりしたもの」とは、「他のものとの境界である輪郭」を持つもの、つまり「かたち」を持つものです。その代表は当然、目に見えるものになります。一方、これを「意味」の観点から考えれば、多義的な(いろいろな意味を持つ)ものでなく、一義的な(ひとつだけの意味を持つ)ものが、「かたちのはっきりしたもの」だということになります。

「かたちのはっきりしたもの」だけを受け入れる

ASDの傾向の高い人が、スケジュールを変更されたり、ルーティーン化した週の予定や日課を変えられると、ひどく当惑し、そのような変更に強く抵抗したり、変更を強行されるとパニックになったりするのは、自分の前にある世界をとらえる際に、「かたちのはっきりしたもの」だけをとらえる(受け入れる)傾向が強いからです。

そして、「かたちのはっきりしたもの」が見当たらず、結果として「かたち」のはっきりしない「あいまいなもの」を受け入れることを強制されるような場合は、強引に「かたちのはっきりしたもの」にしてから受け入れることになります。

「そんないいかげんなことでは困ります」

たとえば、先ほどのAさんとB係長の話にしても、実は課長と係長の間では、この日の午前に課長の手の空いたところで打ち合わせようくらいの話だったのです。しかし、Aさんにそう伝えたところ、Aさんは「そんないいかげんなことでは困ります。時間をきちんと決めてください。わたしだって、その日のスケジュールを決めておかなくてはいけないんです」と言い、係長は、めんどうな奴だなと思いつつ、「じゃあ、10:00ということにしておこう」と言ったのです。しかし、Aさんはそれを聞いて、スマホのスケジュールアプリのその日の「10:00」のところに、「課長、係長と打ち合わせ」と入力したのです。

「かたちのはっきりしたもの」という観点の重要さ

ASDの傾向が高い人は「かたちのはっきりしたもの」だけをとらえがちであるとか、「あいまいなもの」は、強引に「かたちのはっきりしたもの」にして受け入れているということは、もちろん傾向の話であって、ASDの傾向が高い人全員がそうだということではありません。ASDの表れ方は、人によって千差万別だからです。わたし自身は、ASDという特性は、だれの中にも多かれ少なかれある傾向だと思っています。そのため、「ASDである人」と「ASDでない人」を分けることは、本来できないと考えています。ただ、ここでは、ASDの特性をあきらかにするために、あえてその傾向が高い人とその傾向が低い人との「違い」を、対照的に単純化して書いています。その点はご理解ください。

ASDの傾向が高い人が、「かたちのはっきりしたもの」だけをとらえがちであるという傾向は、前々回に取り上げた「言葉の『背景、地』をとらえるのが苦手だ」という特徴(傾向)や、前回取り上げた「視覚情報を得意とし聴覚情報を苦手とする(視覚優位)」という特徴(傾向)よりも、実はより本質的なものではないかとわたしは思っています。なぜなら、発せられた言葉と、その言葉の「背景、地」をくらべれば、「背景、地」の方が、より「あいまいなもの」であり、視覚情報より聴覚情報の方が、より「あいまいなもの」だからです。

また、ASDの傾向が高い人は、空間的なものの把握は得意だが、時間的なものの把握は苦手だということも言われます。これは、視覚優位から説明することもできますが、空間的なものの方が時間的なものよりも「かたちのはっきりしたもの」だという観点から、説明することができます。今、学校で行われているASDの傾向が高い児童・生徒には、その日の予定(時間的なもの、あいまいなもの)は図示して(空間化して、はっきりしたかたちをつけて)与えるという取り組みの根拠は、ここにあるわけです。

なぜ、「かたち」あるものにこだわるのか

それでは、今回の表題にした「なぜ、『かたち』あるものにこだわるのか」ということについて考えてみましょう。理由は、少なくともふたつ挙げられると思います。

まず、第一の理由です。実はこれはASDの特性に限ることではなく、人間一般にいえることですが、人がなにかにこだわるためには、そのなにかに「かたち」がなければなりません。「他のものとの境界である輪郭」としての「かたち」がないもの、つまり、あいまいで、漠然としていて、時とともに変化するものに「こだわる」ことは、ふつうできません。「こだわる」ためには、その対象に「かたち」「形」「変わりにくさ(不変性、一種の「堅固さ」)」が、なければならないからです。「かたち」「形」のもっともはっきりしているものは、「物体」です。「物体」の中では、気体よりは液体、液体よりは固体という順に、「かたち」や「形」が、より「はっきりしたもの」になります。このような「物体」への強いこだわりの極端なかたちが、「フェティシズム(物神崇拝)」のなります。

しかし、「かたち」「形」「変わりにくいさ(不変性、一種の「堅固さ」)」の点では、「物体」の正反対と思える「言葉」に、人が強くこだわることがあります。その代表的な例が、「平和」とか、「自由」とか、「平等」とか、「人権」とか、「正しさ(正義)」とかいう言葉です。これにさらに、先ほども出て来た「あたり前」とか「常識」を加えることもできます。「物体」にくらべれば、あまり「かたち」「形」を持たないように思える「言葉」に、人が強くこだわることがあるという事実は、ちょっと考えると先ほど述べた、人は「かたち」がないものにこだわることはできないということと矛盾するように思えます。しかし、そうではありません。言葉の持つ「かたち」とは、なによりもまず「一義性(文字どおりの意味、ひとつの意味しか持たないこと)」のことだからです

「平和」という言葉は、実は「平和」という文字どおりの意味しか持っていません。言い換えれば、その中身は空っぽ(無内容)だということです。だからこそ、人はそれぞれ勝手に自分の思う「平和(の内容)」を、その言葉に盛り込んで使うことができます。結果として、「平和」のために戦うというようなことが、起きてくるのです。同じことが、「自由」、「平等」、「人権」、「正しさ(正義)」、「あたり前」、「常識」などの言葉についても言えます。

このような言葉の一義性、言い換えれば抽象性や観念性や空っぽさ(無内容さ)を、極限まで高めたものが数字です。結果として、世界をできるだけ「はっきりととらえよう」とすると、必然的に「世界の数値化(統計学、経済学、デジタル化など)」を進めるということが生じてきます。(「世界の数値化」の問題性については、今後、取り上げていきたいと思っています。)

受け入れた「かたち」によって逆に支配される

第二の理由は、「かたち」として世界を受け入れた時、逆に受け入れた「かたち」によって自分が支配されるという事態が生じることです。結果として、「かたち」に基づいてしか、世界を見ることができなくなるということです。ASDの傾向の高い人は、「かたち」あるものだけを受け入れ、「かたち」のないものを捨象する(捨て去る)傾向が高いということを述べてきました。このことが、結果として、「かたち」に支配されることを生み、それがまわりの人にとっては、こだわりの強さや、頑固さ、頭の固さ、融通の利かなさとして感じられるのです。

数字は、強固な「かたち」を持った「揺るがしがたいもの」

先ほどのAさんとB係長の話の中で、Aさんは、10:00の予定が14:00になったことに抗議していましたが、もしこれが、事前にC課長からの依頼がなく、当日の9:50頃になって急にC課長から電話が入って、課長が席を立ってC課に行ったりしたら、どうでしょうか。

たとえそういうことが起きても、B係長にとってこれは想定内のことです。しかし、Aさんにとっては、許しがたいことになります。Aさんにとっては、「10:00」という時刻(数字)は、決まった「かたち」を持った「揺るがしがたいもの」で、誰にとっても勝手に変えられないはずのものだからです。よく、ASDの傾向が高い人は、融通が利かないと言われます。それは、「かたち」を持ったもので、世界をとらえがちだからです。

どんな数字も、本来、大きな「あいまいさ」を含んでいる

ここで重要なことは、どういう経過があって「10:00」という時刻(数字)になったのかが、Aさんにとっては忘れ去られていることです。係長は、最初は「この日の午前、課長の手の空いた時に」くらいの漠然とした伝え方をしたのです。しかし、Aさんが「そんないいかげんなことでは困ります」と言ったために、係長は、「(仕方ない。)じゃあ、(取りあえず、君との間では)10:00(くらい)ということにしておこう」と言ったのです。

仮に、係長が「じゃあ、10:00ということにしておこう」と言うのを聞いた時に、もしその言葉の背後にある「背景、地」を、Aさんがきちんと、とらえていれば、「10:00ということはたぶん課長は了解していない、わたし(Aさん)が時刻をはっきりしろと強く言うので、係長はだいたいの目安で10:00と言っただけなのだ」ということが、わかるのです。しかし、Aさんは「10:00」という時刻(数字)だけを受け取って、自分のスケジュールの中では、「10:00 課長、係長と話し合い」で決定してしまったので、それ以降は、本来、大きな「あいまいさ」を含んでいるこの時刻の「背景、地」は忘れて、「10:00」という時刻(数字)だけを、「はっきり決まったこと」として、自分の行動を進めてきたのです。

世界を数字でとらえてしまうと、数字に支配されて世界を見るようになります。しかし、本来、数字は、あくまで「数字にならない(数字にできない)もの」、つまり「あいまいなもの」を、すべて切り捨てたところで初めて成り立つ「はっきりしたもの」なのだというです。そのことを、われわれは忘れるべきではありません。

おわりに

今回のAさんとB係長の話では、Aさんが会話のやり取りの背後にあるあいまいな「背景、地」をとらえようとしないことを、非難しているように見えるかもしれません。しかし、あいまいな「背景、地」を重視しているように見えるB係長の方にも、実は大きな問題があるのです。このことを踏まえながら、次回の「『おとなの発達障害』について」を書いてみたいと思っています。

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