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なぜ、わかりえないのか 〜「おとなの発達障害」について(その4)

前回、「ASD(Autism Spectrum Disorder、自閉スペクトラム症)」の傾向の高い人は、なぜ「かたち」あるものにこだわるのかを考えました。今回は、ASDの傾向が高い人と、そのまわりにいる人が、それぞれ「正しさ」を求めながらも、なぜ、なかなかわかりあうことができないのかを考えてみたいと思います。

「発達障害」や「自閉」という言葉が持つ問題点

これ以降の文章では、ASDという言い方を使って、「発達障害」や「自閉」という言葉は使いません。その理由については、前回の冒頭に書きましたので、そちらを読んでいただければ幸いです。

お互いの言っていることがわからない

わたしが、ここ何回か続けてASDの特性について書いてきたのは、ASDの傾向が高い人を擁護するためではありません。もちろん、ASDの傾向が高い人とともに暮らすことを嫌だと感じる人を、擁護するためでもありません。今まで、「『おとなの発達障害』について(その1)」の中で、わたしがASDの傾向が高い人の特徴(傾向)として挙げたことは、すべての人が多かれ少なかれ共通して持っているものなのです。わたしは、本来、「ASDである人」と「ASDでない人」を分けることはできないと考えています。にも関わらず、なぜこれまで書いてきたような、お互いの言っていることがわからないというトラブルが起きてしまうのかを、ずっと書いてきたつもりです。

二人は一体どこで対立しているのか

前回書いたASDの傾向が高いAさんとB係長の間のトラブルを、今回は、さらに単純化して、一体どこで二人が対立しているのかを見てみたいと思います。もちろん実際に起きているトラブルは、当事者のそれまでの経歴や人柄、二人のそれまでの関係、職場の雰囲気等がからんでくるために、きわめて複雑です。しかし、ここでは問題を考えやすくするために、あえて単純化しています

ASDの傾向が高いAさんは、ある朝、出勤するとB係長から、「今日予定していた課長と三人の打ち合わせが、課長の都合で、午前から午後に変わったよ」と言われました。Aさんは、「えっ、おかしいじゃないですか。先週、係長が課長とスケジュール調整して、午前に決めたんですよね」と言い、さらに「なぜ係長は、課長がそんなおかしなことを言い出した時に、そんな変更はできないとはっきり言ってくれないんですか」と言い出すので、B係長は、思わず、「そんなこと言えるわけないだろう。バカか、お前は」と言ってしまいました。Aさんは、「係長、その言葉はパワハラです。人権侵害です」と叫びました。

Aさんの「正しさ」は

ここでAさんが「おかしい」と主張している根拠は、きわめて単純化してしまえば、「約束は守らなければならない」ということです。一度、今日の午前に打ち合わせをすると、三人で決めた(約束した)以上は、三人全員が約束を守らなければならないということです。そして、そのことには、上司だ部下だということは関係ありません。いわば、「人である限り、約束は守らなければならない」ということです。

B係長の「正しさ」は

一方、B係長が、課長から「午前は別の会議が入ってしまったから、打ち合わせは午後にしてくれ」と言われた時に、Aさんのように「おかしいじゃないですか」と言わずに、「わかりました」と言ったのは、これもきわめて単純化して言ってしまえば、「職場では、部下は上司の言うことに従わなければならない」と思っているからです。

AさんとB係長の対立は、単純化してしまえば、Aさんの「人である限り、約束は守らなければならない」という「正しさ」と、B係長の「職場では、部下は上司の言うことに従わなければならない」という「正しさ」のふたつが、ぶつかり合うことから起きているのです。

どちらが「正しい」のか

ふつうに考えれば、「正しさ」というものは、両方をくらべてみれば、どちらが「正しい」かわかるはずです。しかし、Aさんの主張する「正しさ」とB係長が主張する「正しさ」は、その生まれてくる根拠が違うために、くらべようとしてもくらべようのないものなのです。そもそもくらべるためには、どちらにも共通するもの(くらべる基準)がなければなりません。しかし、このふたつの「正しさ」は、その生まれてくる根拠がまるで違うためにくらべることができず、結局、自分の「正しさ」で相手の「正しさ」を、ひたすら「それは間違っている、おかしい」と否定することしかできないのです。

ふたつの「正しさ」の根拠は

では、このふたつの「正しさ」の生まれてくる根拠はどのようなものなのでしょか。そして、生まれてくる根拠の違いが、どのような違いをふたつの「正しさ」にもたらしているでしょうか。

「約束は、約束だ」と主張することの「正しさ」とは

Aさんが判断の根拠にしている「約束は守らなければならない」ということは、確かにそのことだけを考えれば、人である限り、誰もが守らなければならない「正しいこと」に思えます。しかし、よく考えてみると、われわれは「お互いが守ろう(守らなければならない)と了解し合ったこと」をふつう「約束」と呼んでいるのですから、「約束は守らなければならない」とは、実は「約束は、約束だ」と言っていることと、ほぼ同じことです。つまり、「約束は守らなければならない」ということの「正しさ」は、実は同語反復(論理学ではこのような論理を「同一律」と呼びます)の「正しさ」にすぎないのです。

同一律(「AはAだ」)は、Aにどんな内容(言葉)を入れても、常に「正しい」のです。そしてこのことは、同語反復(同一律)の「正しさ(真理性)」は、Aの内容とは直接は関係ないということを示しています。つまり、「約束は守らなければならない」という主張は、われわれはふつう「守らなければならないこと」を「約束」と呼んでいるのですから、実はほとんどなにも言っていないことに等しいのです。(ここで問題になることは、今日の午前の三人の打ち合わせが、「どうしても全員で守らなければならない『約束』」であったのかどうかです。おそらく、係長も課長も、そこまでの「約束」をした覚えはありません。)

「みんながそう思って、それに従って行動している」ことの「正しさ」

これに対して、B係長の主張する「正しさ」は、あえて単純化してしまえば、「職場では、部下は上司の言うことに従わなければならない」というような内容になるでしょう。これも、この内容だけを考えれば、「まあ、ふつうはそうだろう(それが、正しいだろう)」と多くの人が思うことです。B係長の「正しさ」の根拠は、自分のまわりの多くの人が「そう思い、それに従って行動している」という暗黙の了解にあります。このような「みんながそう思って、それに従って行動している」内容を、以前、「共用の物語」と呼んだことがあります。(くわしくは、「汎ASD論(その2)〜ASDの人の生きづらさはどこからくるのか(その2)〜」をご覧ください。)

ふたつの「正しさ」の性質の違い

「職場では、部下は上司の言うことに従わなければならない」、このことをAさんに言えば、Aさんはたぶん、「上司が間違っている場合(違法なことをする、約束したことを、一方的に破棄する等)でも、従わなければならないのですか、それはおかしいでしょ」というような反論をするでしょう。しかし、このような反論はB係長にはあまり効果がありません。B係長にとっては、そんなのはあたり前のことだからです。B係長にしても、すべての場合で、上司の命令は絶対だなどと考えているわけではありません

「程度による」「ケースバイケース」の「正しさ」

課長から「打ち合わせを午後にする」という提案があっても、B係長自身が午後にどうしても変更できないスケジュールが入っていれば、課長と話し合って明日の午前にするなどの調整をしたでしょう。同じように、もし、Aさんが「すみません、午後には外に出なければならない仕事が入っているんです」と言って、係長がそれは変えることができないなと判断すれば、係長は課長のところに行って、別の日に変えるなどの調整をするはずです。B係長がAさんの言葉にカチンときたのは、Aさんが「(誰であっても)約束した日程を変えることは、許されない」という「正しさ」で、自分や課長のしたことを、「おかしい」「間違っている」と頭から批判したからなのです

しかし、Aさんには自分の主張が、なぜB係長にカチンとくるのかはわかりません。Aさんにとっては、自分の主張はあくまでどんな場合も「正しい」ものだからです。その「正しさ」に対して、いろいろな理屈をつけて、例外を認めさせようとするような係長の主張は、あきらかに「正しくない=間違っている」からです。Aさんにとっては、すべての場合に例外なく通用することのみが「正しい」ことであって、「程度による」とか「ケースバイケース」という言葉は、自分たちの都合で「間違ったこと」をするために使う「言い訳やごまかし」だとしか思えないからです。

100パーセントの白だけが「正しい」

「正しさ」という言葉の意味だけで考えれば、おそらくAさんの方が論理的には正しいでしょう。論理的には、ある場合には正しくて、ある場合には正しくないことなど、そもそも「正しさ(真理)」とは呼べないからです。しかし、実際の世の中や職場は、Aさんが信じる「正しさ(真理)」ではなく、B係長が信じる「程度による」とか「ケースバイケース」という「正しさ(共用の物語)」に基づいて動いているのです。しかし、Aさんにとっては、そのような「正しさ」とは、あまりにいい加減で、おかしなものに見えるはずです。

このことを白と黒とグレーの比喩を使っていうなら、ASDの傾向が高い人にとっては、100パーセントの白だけが「正しい」ことになります。わずかでも、黒が混じっているグレーは白ではないため、「間違い」ということになります。これに対して、B係長のような見方をすれば、100パーセントの白(完璧な「正しさ」)など、そもそもないのです。さまざまにあるグレーの中で、一番白そうなものを、この方が他のものより「白い(正しい)」として選ぶことになります。

0と1の間に、なにがある

一般に、ASDの傾向が高い人は、妥協しないとか完璧を求める傾向が強いと言われます。そうなる理由のひとつが、今述べたことの中にあります。つまり、「程度による」とか「ケースバイケース」ということを受け入れることが苦手だということです。結果として、数値でたとえれば、0と1の間には、さまざまな数値(0.2や0.736等)が無限にあるのですが、ASDの傾向が高い人は、まわりからは、いわば0か1しか受け入れない人のように見えるのです。つまり、成功(1)でなければ、すべて失敗(0)になり、その間に0.736というような中途半端な数値(程度)はないように思っている人のように見えるのです。

「きっとわたしに対して悪意を持っているんだ」

Aさんは自分の主張が「正しい」と思い、B係長も自分の判断は「正しい」と思っています。しかし、それぞれの「正しさ」の生まれてくる根拠はまったく違います。Aさんは、同一律とか言葉の意味の説明のような、もともと証明する必要のない普遍的な「正しさ」を根拠にしています。「約束は守られなければならない」「パワーハラスメントは許されない」「人権は尊重されなければならない」などです。Aさんにとっては、これらはあまりに分かり切った、万人に通用する「正しいこと(真理)」です。そのため、このような「正しいこと(真理)」を受け入れない相手は、すなわち、「訳のわからない、おかしな人」、「きっとわたしに対してなにか悪意を持っている人だ」ということになってしまいがちです。

暗黙のうちのお互いの了解内容は、言葉にすると矛盾する

これに対してB係長の「正しさ」は、本来、暗黙のうちの、言葉にならないお互いの了解内容を根拠にしています。それは、あえて言葉にすれば、「職場では、部下は上司の言うことに従わなければならない」とか、「カスタマー(顧客など)を怒らせることはしてはならない」とかになります。実は、Aさんが主張する「約束は、守られなければならない」も、B係長の中ではお互いの了解内容の中に、入っていないわけではありません。しかし問題は、このように言葉にしてみればよくわかりますが、そのような「正しさ」は、それを貫こうとすれば、「ぶつかりあう」こと(矛盾)が必然的に起きてくるということです。

課長の言うとおりにすれば、「職場では、部下は上司の言うことに従わなければならない」ということは守れても、「約束は、守られなければならない」は破ることになります。また、課長の言うとおりにしたら、カスタマーとの面会の約束を破り、カスタマーが怒り出す可能性が高い場合、B係長は「職場では、部下は上司の言うことに従わなければならない」と、「カスタマーを怒らせることはしてはならない」のふたつの「正しさ」にはさまれて、なんとかこの対立するふたつの「正しさ」の調整をしなければなりません。そして、ここでB係長が問題にするのは、「どちらが正しいか」ではありません。「どちらがよりうまくいくか」ということです

「訳のわからない強制」と「訳のわからないこだわり」の対立

Aさんにとって、このようなB係長が信じている、そもそも矛盾しあうような複数の「正しさ」を尊重することは、「おかしな、間違った」ことです。さらに、そのような明らかに「正しくないこと=間違っている」ことを、B係長が自分に「押しつけてくる」ことは、訳のわからない強制や嫌がらせにしか感じられません。逆に、B係長にとって、Aさんの主張する「正しさ(真理)」は、現実味のない空理空論、こじつけ、訳のわからないこだわりにしか感じられないのです。

なぜ、わかりあえないのか

B係長はどんな「正しさ」にも例外があると考えます。(これはいわば「世間知(この世で生きていくのに役立つ知恵、知識)」です。)逆に、Aさんは例外を認めたら、「正しさ」が成り立たないと考えるのです。B係長もAさんも、職場に「正しさ」を実現したいと思っている点では同じです。しかし、それぞれの「正しさ」の性質があまりに違うので、お互いが自分の「正しさ」を主張すれば主張するほど、互いの心の溝は広がるばかりなのです

おわりに

一般に、人権侵害においては、「強い立場」の加害者と「弱い立場」の被害者の間には、必ず大きな「ギャップ」「断絶」「心の溝」が存在しています。そして、お互いに、相手が「間違っている」「おかしい」と思っています。しかし、そう思う根拠になっている自分の「あたり前」や「正しさ」が、相手とはあまりに違うので、両者の溝は、いくら話し合っても深まるばかりで、お互いの了解につながることがありません。やがて、話しあうほど憎しみばかりが生まれるようになることさえあるのです。

次回は、今まで述べてきたASDの特性が生みがちなパワーハラスメントなどの人権侵害から、広くほかの人権侵害や差別へと話をつなげて、全体をまとめたいと思います。

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