学問バトル:経済学と社会学の闘争を、ルーマンを用いてブルデューに持ち込む
ここでの「経済学」は新古典派経済学を、ここでの「社会学」は構築主義を、それぞれ指している。経済学と社会学の闘争を、ルーマンを用いてブルデューに持ち込むこと、すなわち、闘争そのものを社会学の空間に引きずり込んでしまうことができる。
たまには、好き勝手に書き散らそうじゃないか。
経済学は原子論的な「個人」から出発し、社会学は関係論的な「あいだ」から出発する。もちろん、経済学でも制度や構造といった「あいだ」を持ち出すことはあるし、社会学でも「個人」を第二の足場に用いることはある。
経済学で「あいだ」を持ち出すのは、たいていの場合、社会の実態にモデルを近づけるためだろう。たとえば、サローの仕事競争モデルは、労働市場に情報の不完全性を仮定した(というよりも労働市場における完全情報の仮定を解除した)ことにより、学歴による求職者のスクリーニングという説明を可能にした。すべてを「個人」に帰属させる純粋な新古典派経済学と比較して、会社と求職者の「あいだ」を前提する仕事競争モデルは、社会の実態に近い説明を提供することができたのである。
社会学で「個人」を持ち出すのは、たいていの場合、説明を簡略化するためだろう。ガーフィンケルのエスノメソドロジーなり、ラトゥールのアクターネットワークなり、すべてを「あいだ」で説明しようとすると、説明者にも被説明者にも大きな負担がかかる。だからこそ、社会の実態から距離が生じることを承知で、説明に「個人」という第二の足場を持ち込み、世界観を単純化するのである。
ここで議論の視座を引き上げるために、ルーマンの認識論的問題に触れておこう。これは人間の宿命とも言える問題だけれども、人間は世界の複雑性を縮減しないことには表象を生みだせないのであって、我々が世界の認識をメタ認識できるような世界は、すでに複雑性が大幅に縮減されているのである。人間には、世界そのものを捉える能力がない。このことを前提すれば、経済学と社会学の対立を、次のように定式化することができる。
すなわち、我々はどの程度まで世界の複雑性を縮減して認識するべきか、という問題である。我々は現実の複雑性を縮減しなければいけないという宿命を背負っているのであって、「個人」という原子論的な考え方は、それを極めて上手く達成するのである。もちろん、「個人」を突き詰めて新古典派的な言説で世界を覆うと、倫理的な危機が発生することは間違いないが、逆に、「個人」を徹底的に解体して社会学的な言説で世界を覆うと、縮減されないままの複雑性が我々を襲うことになる。
すると結局は、程度の問題になる。どこまで「個人」で説明して、どこまで「あいだ」で説明するべきか。程度の問題なら、それは権力の問題であり、政治的な闘争の問題である。もちろん、政治的な闘争における最強のポジションは、政治性が隠蔽されるポジションであって、「社会科学の女王」と呼ばれる経済学は同時に政治性の女王でもあるのだ。
こうして学問バトルは、ブルデューに回収される。
そもそも、メタ学問の枠組み、すなわち認識論を内部機構として備えているのは社会学であるから、少なくとも論理の水準においては、経済学が社会学に勝てるはずがない。それではなぜ、現実において社会学が後塵を拝しているのかと言うと、それはおそらく、社会学が謙虚で、経済学が傲慢だからに違いない。あらゆる学問には宿命的に政治性が含まれるが、それを社会学は素直に認めるのに対して、経済学は認めない。経済学は、自らの政治性を否定するという政治的アピールをすることによって、強大な政治権力を手中に収めている。
度し難い、度し難いねえ。