尾城太郎丸「社会的責任」論文を読む
※ 以下の文章は、2024/09/25時点における私の見解である。将来的に、見解が修正ないし更新されることをご理解いただきたい。もし見解が修正ないし更新されるとしても、私自身の思考の軌跡として、この文章はそのままにしておこうと考えている。
中小企業研究という世界に、彗星の如く現れ、彗星の如く消えた異端者がいた。彼は、1974年に経済学で博士号を取得し、同年の秋にたった17ページの論文を書き上げると、それを最後に中小企業研究から去ってしまった。
尾城太郎丸 (1974) 「日本的中小企業論の社会的責任について」を、本稿では読み解いていこうと思う。彼の博士課程で副査をつとめた伊東岱吉の退任を記念して『社会的責任』論文は書かれたが、17ページという短さにもかかわらず、その内容があまりにも異端だったことにより、他の中小企業研究者からはほとんど黙殺された。彼が中小企業研究から去った背景には、界隈に対する少なからぬ失望があったものと思わずにはいられない。
本稿では、『社会的責任』論文の章立てに沿って、当論文からの引用を主体として文章を組み立てる。ただし、論理展開に歴史社会学的な豊かさを含ませるために、時代性を補足する資料も併せて掲載する。忘却されたノブレス・オブリージュの精神を、インターネットで閲覧できるようにすることだけでも、社会的意義は大きいはずである。
また最後に、『社会的責任』論文の歴史社会学的意義を述べる。この時代にこのような論文が書かれ、学会から黙殺されたことは、その後の中小企業研究の方向性をどのように示唆しているのか。本論文には戦後日本の変遷がすべて凝縮されていると、私には思われるのである。
日本的中小企業論の社会的責任について
――マルクス主義的経済構造分析の姿勢を反省する――
尾城 太郎丸
■ はじめに
尾城の『社会的責任』論文は、なかなかに衝撃的なこの文から始まる。結局のところ、尾城の主張は、学問は人間のために為されねばならない、まして生活者の喜怒哀楽に密着している中小企業を論じるからには人間不在の議論に終始してはいけない、ということに尽きる。
学者はいかにあるべきか、学問はいかにあるべきか。
尾城は1960年代を一貫して慶應大学の博士課程生として過ごしていたので、大学紛争の性質をよく理解していたはずである。いわゆる「大学紛争」では、表面的には学生陣と教授陣の対決という構図が敷かれたのであって、尾城は心情的には学生陣に共感しつつも、学位のために教授陣に反抗できない立場に置かれていたものと思われる。博士号を取得した直後の文章で、このようなアカデミズム批判が表れるところに時代性が香る。
学者としていかに生きるべきかという問いに、尾城は正面から向き合っている。中小企業研究者として生きることは、論文生産と講義の対価として俸給を受けとる以上のことであるから、その余剰の大きさを社会的責任として自ら引き受けなければいけない。尾城がわざわざこのような主張を展開しなければならなかったことの背景には、そのような社会的責任の自覚をもたない社会科学者の群れがある。そのことが、本論文では(多少の誤解や曲解を含みながらも)描き出される。
これは、自らの尊厳を貫こうとした学者の叫びであり、同時に、中小企業と呼ばれるところで生きる人々の尊厳を守ろうとした学者の叫びである。それが冷静な対話ではなく、激情的な叫びであったがゆえに、また世代感覚の違いゆえに、学会からは黙殺されたのではあるが。
■ (一)経済構造分析の基本的発想の問題性
ここで尾城の主張は、要するに、学者にしても政治家にしてもマルクスの本来の思想を取り戻すべきだ、ということである。レーニンやスターリンによって歪曲され通俗化された「マルクス主義」ではダメだ、と言っている。では、本来のマルクス思想とは何であろうか。
本来のマルクス思想には、「『社会の総体的認識』というすこぶる雄大な、豊富なビジョンがあった」と尾城は言う。これは、マルクス主義を掲げる中小企業論に対する批判であると同時に、広く社会科学に対する批判である。現在の社会科学は、国民総生産や生産性といった数値のみを認識し、生活している人間を認識していないがゆえに、ただ無限の経済発展を礼賛するだけになっているのではないか。
本来のマルクス思想は、人間がまさに人間であるという点、すなわち物質に還元しきれない余剰を抱えた存在だということを認識したうえで、その余剰が失われていることを問題としたはずだった。だから当然、社会変革の目的は人間的な余剰の回復にあるわけである。しかし、通俗化した「マルクス主義」においては、むしろその余剰が否認され、人間が物質へと還元してしまう。そうなると、社会認識からも社会変革からも質的な側面が失われ、ただ量的な発展を追い求めることしかできなくなる。
1960年代は『経済学・哲学手稿』という初期マルクスに注目が集まり、人間回復の思想としてマルクスが再認識されるようになっていた。かつてない経済成長と社会変動のなかでアイデンティティの危機にあった若者たちは、「疎外」をキータームとする初期マルクスを積極的に摂取し、それを本来のマルクス思想として、マルクス主義経済学や共産党といった教条化した「マルクス主義」から離脱していったのである。
尾城は、ソビエト連邦の「収容所群島」としての有様も、本来のマルクス思想に由来する結果ではなく、レーニンやスターリンによる思想の歪曲に由来する結果だとしている。通俗化した「マルクス主義」なる思想は、人間を経済や政治の客体として見なすのみであり、人間の人間的な部分を無視するがゆえに、非人間的な社会を生み出すのは必然だ、というわけである。
また尾城は、「講座派」の動向をも批判する。講座派とは、戦前における日本のマルクス主義をリードしてきた学派であり、戦時体制下では壊滅状態になるも、戦後になって講座派を継承する経済学者たちが登場する。しかし、その後継者たちはスターリン主義の方向に問題関心を単純化してしまい、人間不在の経済構造分析を繰り広げている。
尾城の問題意識を分かりやすく言い換えるのであれば、「人はパンのみにて生きるにあらず」という新約聖書の一節が適切だろう。尾城の信念に反して、「マルクス主義」の学者たちは人間をパンと同一視し、パンの生産拡大だけを追求する。また「マルクス主義」の政治家にしても、パンの生産手段の所有と非所有にもとづく階級関係だけを問題にして、階級関係ではとらえきれないことを捨象してしまう。
以上の展開を踏まえ、尾城は次のように章をまとめる。
人間の、経済的ではない部分、それでいて政治的でもない部分、すなわち、あらゆる要素に分解してもなお捉えきれない〈余剰〉を含めて「社会の総体的認識」のビジョンを提供するのが、本来のマルクスの課題ではなかったか。人間の社会的意識や人間存在の主体的問題を切り落とした「経済構造分析」は、世界を質的に変革し得るビジョンを提供することができない。
学問の課題は、人間回復の実践のために、社会のビジョンと社会変革のビジョンを提供することである。だとするならば、人間を物質的ないし階級的に捉えるのみで〈余剰〉に目を向けない「マルクス主義」は、学問の課題を達成することができない。それだけでなく、「マルクス主義」を喧伝する学者や政治家は、マルクス思想を歪めて流布することにより、マルクスを不当に貶めているのである。
第一章では、このように、「マルクス主義」を自称する学派や政党に対して痛烈な批判がなされる。これは尾城の、マルクスには依拠するがマルクス主義からは離脱するという、ポジショニングの宣言でもある。
■ (二)戦時・戦後の中小企業論の発想
第一章では、本来の「マルクス」と一般的な「マルクス主義」についての交通整理がなされ、「マルクス」に依拠する立場から「マルクス主義」を批判するという尾城のポジショニングも明確化された。
そのうえで尾城は、戦時から戦後(高度成長以前)にかけての中小企業論も、批判されるべき「マルクス主義」の特徴を一貫して有していたという主張を展開する。その背景には、中小企業論は敗戦を境として方向転換したという通説的理解がある。中小企業論はたしかに方向転換したが、それは「マルクス主義」の枠内における振幅であり、人間疎外の理論から脱却したわけではない。
「マルクス主義」の枠内における振幅、それは、「生産力主義」と「生産関係主義」との振幅である。戦時体制下では、総力戦体制と思想統制のもとで生産力の拡大が至上命題とされた。そこに人間の余剰性を汲みとる余地がなかったことは言うまでもない。一方、戦後では、解禁されたマルクス主義のもとで日本経済の階級構造(すなわち生産関係)が問題化されるようになるが、そこでもやはり人々の生活に接地した研究やビジョンは現れなかったのである。
尾城はまず、戦時体制下の「生産力主義」を以下のように批判する。
ここでは、戦時体制下の中小企業論が「国民大衆を侵略戦争に駆り立てる役割を分担した」と痛烈に批判されている。この批判については、時代性の補足が必要である。尾城は、1959年に伊東岱吉らとの共著「日本中小企業問題史」(『日本における経済学の100年』収録)で出版デビューしていることから推定するに、敗戦後に初等教育と中等教育を受けた世代だった。そのような世代は「平和主義」を教え込まれているからこそ、ベトナム戦争への反発が強かった。ベトナム特需で日本経済が活性化していることは、平和主義国であるはずの日本がベトナム戦争に加担していることを意味するのであり、その状況と太平洋戦争とを重ね合わせて批判しているのである。
〔2024/10/02追記――ここでの「敗戦後に初等教育と中等教育を受けた世代」という推定は誤りである。正確には、尾城は1925年ほどの生まれであり、大学に進学するころに敗戦を迎えていたはずだということが判明した。詳細は拙稿「尾城太郎丸についての補注」を参照のこと。〕
加えて尾城は、敗戦後に初等教育と中等教育を受けた世代であるから、戦時中の知識人の状況にかんして無知だった。戦時中の知識人たちが「ファシズム的な全体主義諸思想」を掲げたことは事実だとしても、それは以下のような事情によるものだった。
尾城の批判には、その妥当性は別にして、彼の世代の特徴がよく表れている。戦時体制を経験した知識人は、その経験が屈辱であるがゆえに口を閉ざしたため、戦後世代には戦争体験が継承されなかった。こうして戦後世代は戦時体制を経験した知識人を誤解し、「国民大衆を侵略戦争に駆り立てる役割を分担した」と一方的に断罪してしまう。
尾城がこのように主張するとき、これは尾城がマルクス主義者の戦争体験に無知だったことを表しているが、それだけにとどまらず、尾城自身が「戦争協力への罪悪感」を抱いていることをも表しているのである。初等教育と中等教育で「平和主義」を教え込まれ、大人になってみると自らがベトナム戦争に加担しているという構図は、戦後世代に巨大な罪悪感を与えた。尾城が抱える倫理性も、この罪悪感を抜きにしては語れないと思われる。
以上のように戦時の「生産力主義」を批判した尾城は、戦後の「生産関係主義」への批判に移る。
尾城は、牛尾真造 (1951)『中小企業論』や伊東岱吉 (1956)『中小企業論』といった業績について、「生産関係」に基づいた経済構造分析の枠組みを作り上げたとして、一旦は評価する。しかし、その枠組みは客観的な経済構造を捉えるのみであり、それを踏まえたうえでの人々の生活の内在的な把握が不可欠だったにもかかわらず、中小企業論はそのような進路をとらなかったとして批判するのである。
人々の生きられる感覚を汲みとるべきのマルクス主義的中小企業論が、むしろ、人々に対して物質的な図式を押し付けるだけに終わってしまった。尾城はさらに踏み込んで、国民大衆がマルクス主義の思想と運動全般に対する不信感を持つに至ったことまで批判する。国民大衆が獲得すべき人間的生活は、本来の「マルクス」こそが主張していたにもかかわらず、「マルクス主義」の学者や政治家が「マルクス」の名のもとに非人間的な理論や実践を人々に押し付けたことで、国民大衆が「マルクス」を誤解することになったのである。
以上の展開を踏まえ、尾城は次のように章をまとめる。
ここで交通整理をしておくと、尾城は、中小企業論は本来の「マルクス」に依拠しているべきだった、ということを主張しているに尽きる。ただし、これはやや不当な批判と言わざるを得ない。そもそも初期マルクスの『経済学・哲学手稿』の日本語訳が出版されたのが1963年(藤野渉訳)であり、マルクスの「疎外論」が日本で注目を集めたのは1960年代後半のことだったので、尾城の批判は後出しである。尾城の批判が彼の世代の感情をよく表していることも確かではあるが、それが不当な批判として年長の研究者たちから黙殺されることもまた確かであった。
■ (三)高度経済成長と中小企業論
第二章では、戦時から戦後にかけての中小企業論が、通俗化した「マルクス主義」の枠内において、「生産力主義」(生産力理論)から「生産関係主義」(経済構造論)へと重心を移してきたことが示された。マルクス主義的中小企業論は、戦時体制下で「転向」して生産力主義を掲げ、敗戦を機に「再転向」して生産関係主義を掲げ、しかし、そのいずれにおいても人間不在の経済理論を展開したのである。
高度成長が始まると、少なくとも政治的なマルクス主義者たちは「再々転向」をすることになった。革命の戦略的日程はほとんど無期限に延期され、資本主義的な経済成長の恩恵に浴しながら、その経済成長の恩恵をより多く獲得するための手段としての労使交渉を執り行う、といった具合である。
学問においても、マルクス主義経済学者たちは、政治的な革命ではなく経済成長によって「階級構造」が解消されるという論調に移り始めた。これはすなわち、「生産関係主義」から「生産力主義」への逆転とも言える。
大量消費社会が形成されていく中で、経済学者の多くは、マルクス主義の政治的なイデオロギーから離脱し、日本経済の「構造変化」を追認することとなった。政治的なイデオロギーから離脱した学者たちが頼ったのは、他でもない「科学主義」というイデオロギーだった。学者たちが採用した「科学主義」的態度の前では、あらゆる社会は経済学のみで把握可能な対象となってしまい、人間不在の一般理論が作られる。
ここでまた、本来の「マルクス」が引き合いに出される。マルクス主義を名乗るのであれば、人間の人間的な部分まで含めた「社会の総体的認識」を提供するべきであって、科学主義によって人間を物質的に理解するような態度を批判し克服すべきだったのではないか、という批判がなされる。
本来のマルクス思想は、人間の疎外を実践的に克服するための思想だったはずである。しかし、マルクス主義的中小企業論は、抽象的な生産力の拡大を目指すだけになってしまい、生産力を拡大することで生じる人間疎外についてはまったく無関心になっている。それだけにとどまらず、政治的なイデオロギーを手放したことにより、「科学主義」の例によって研究そのものが自己目的化する傾向に陥り、生きられる人間から離脱していく。このような傾向に対して、尾城は次のように社会的責任を指摘する。
ここまで指摘してきたのは、中小企業論が「人間不在の一般理論」を目指して中小企業の実態から離脱していく過程だったが、これとは反対方向の運動も生じていた。すなわち、学者たちが中小企業の実態へと埋没していったのである。彼らは目の前の企業を分析するのみで、「社会の総体的認識」を提供しようとはしなかった。
高度成長期には、中小企業論は一種のブーム状態であり、新規参入者が相次いだ。高度成長政策は全体として、経済成長によって日本経済の「二重構造」を解消することを掲げていたため、中小企業の「近代化」が産業政策のスローガンとなり、中小企業の実態調査が隆盛を極めたのである。いかに中小企業が近代化したのか、あるいは、いかに中小企業が近代化に適応できないかといった実態調査が、学者たちによって量産されていった。
ここでの尾城の主張も、やはり、マルクス主義的中小企業論は社会的責任を果たしていない、ということである。中小企業の生活者に密着して、国民の疎外状況を克服するための「総体的認識」を提供すべきにもかかわらず、中小企業の実態分析をする研究者は「近代化」を信奉するだけで、国民の疎外状況にはまったく関心を寄せない。
以上のように、高度経済成長期における中小企業論も、人間不在であることに変わりはなかったと尾城は結論づける。『社会的責任』論文が書かれたのが1974年であるからして、尾城は、ほとんど最新の研究までを一面的に断罪してしまったわけである。これは研究者としてのセンスに欠けていると思わないでもないが、ここでは、尾城が中小企業論に抱いた失望がこれほどまでに大きかったと解釈しておく。
■ (四)日本的中小企業論への主体的反省
第一章で、本来のマルクス思想と通俗化した「マルクス主義」が区別され、前者に立脚して後者を批判するというポジショニングが示された。第二章と第三章では、そのポジショニングにしたがって、戦時・戦後・高度成長期の中小企業研究が、本来のマルクス思想から要請される社会的責任を果たさず、むしろ、通俗化した「マルクス主義」を振り回して人間疎外を極限にまで突き進めてしまったと断罪された。
そして第四章では、本来のマルクス思想にもとづいて、マルクス主義的中小企業論がいかにあるべきかが示される。この部分については、私が解説を挟むよりも、尾城のテクストをそのまま読むほうが、雰囲気がよく伝わるだろう。ここに示されているのは、いかにも大学紛争的な問題提起であることから、この論文が尾城なりの闘争だったと解釈してよいと思われる。
この「要するに」から始まる段落が、『社会的責任』論文の結論に相当する。学者は、学問のための学問に耽溺する(「アカデミック・アニマル」)のではなく、あくまで人間のための学問を生み出さねばならない。学問は、つねに学問以上のものであるから、その余剰部分を鋭く自覚し、それに対する社会的責任を引き受けねばならない。世界を認識するということがすでに恣意的な実践であり、その恣意性を自覚して、主体的に認識を選択する態度が学者には必要である。
この提言は、私自身は妥当だと考える。それゆえにこそ、尾城が中小企業論の全体を敵に回すような直接的批判に終始したこと、中小企業研究者たちが尾城の論文を黙殺したこと、尾城が中小企業研究を去ったことが、残念に思われる。中小企業研究者たちは、この忘れられた『社会的責任』論文を真摯に受け止める必要があるのではなかろうか。
■ むすびに代えて
論文の末尾の「むすびに代えて」では、尾城自身が本論文をどのように意味づけているかを述べている。ここでは、その全文を引用しておこう。
『社会的責任』論文の歴史社会学的意義
ここまで尾城太郎丸の『社会的責任』論文を見てきたわけだが、以下ではその意義について考察していきたい。ただし、考察されるのは、中小企業研究における意義ではなく、戦後日本における歴史社会学的な意義である。
『社会的責任』論文は、中小企業研究において極めて異例の論述であり、研究者たちから黙殺されたことを鑑みても、その論文が中小企業研究に対して何らかの貢献を果たしたとは言えない。しかし、中小企業研究の「人間不在の経済構造分析の基本姿勢」を鋭く批判するこの論文が、中小企業研究に対して貢献を果たさなかったという事実こそが、戦後日本の社会意識の変遷を象徴しているのであり、中小企業研究のその後の変遷、すなわち近視眼的な経営論への傾斜をも示唆しているのである。
○ 闘争の世代の社会意識
尾城太郎丸は、敗戦後に初等教育と中等教育を受けた世代であり、その世代の特徴をよく表している。本節では、尾城のような「戦後世代」あるいは「団塊世代」が抱いていた社会意識に焦点を当てる。
〔2024/10/02追記――ここでの「敗戦後に初等教育と中等教育を受けた世代」という推定は誤りである。正確には、尾城は1925年ほどの生まれであり、大学に進学するころに敗戦を迎えていたはずだということが判明した。詳細は拙稿「尾城太郎丸についての補注」を参照のこと。〕
2024年現在の若者たちは、「世代」という概念にリアリティを感じていないかもしれない。日本社会における世代間の社会意識の距離は、時代とともに縮小しているのであり、世代間の差異が意識されなければ「世代」なる概念は意味をもちえないから、それもそのはずである。
しかし、少なくとも1980年代までは、「世代」が強く意識されていた。この表は、NHK放送文化研究所による「日本人の意識」というアンケート調査の結果を数値化したものである(見田宗介 (2018)『現代社会はどこへ向かうか』)。このデータを見ると、団塊世代はまさに世代間の社会意識の差異を、それ以降の世代よりも遥かに強く感じていたことが分かる。16-19歳と親世代の距離も、時代とともに縮小し、現代ではほとんど消失しているが、1970年に20歳過ぎだった団塊世代は親世代との大きな距離に直面していた。
具体的に、第一次戦後世代と団塊世代との差異をあげていく。まず、前者は「皇国教育」を受けているのに対して、後者は「平和主義教育」を受けている。次に、前者は、戦争の記憶(戦地に赴いたこと、友人が死んだこと、言論統制と思想統制のなかで生きたこと)を強く持っているが、後者はそれを持たない。それに加えて、前者は「月給取り」に憧れた世代だが、後者は一般化した「しがないサラリーマン」に閉塞を感じる世代である。これらの例を見るだけでも、団塊世代にとって「世代」という概念が強く意識されたことが想像できる。
以上で「世代」を論じることの意義が示された。ここからは、尾城太郎丸という人間が、団塊世代として何を経験したかを述べていく。団塊世代の社会意識については、すでに小熊英二 (2009)『1968』で詳細に分析されているので、それに準拠する。
団塊世代は、他でもない「全共闘運動」の主役である。もちろん、団塊世代のすべてが全共闘に参加していたわけではない(当時は大学進学率も高くなかった)が、それでも全共闘運動と世代性は切り離して論じることができない。「全共闘」あるいは「大学闘争」といっても、その内実はさまざまだが、尾城太郎丸を読み解くヒントになるのは東大闘争である。なぜなら東大闘争は、他の大学闘争とは異なり、大学院生や助手が主体となった運動だからである。尾城太郎丸も、前述のように1959年の時点で論文を出しているので、東大闘争を主導した人々のメンタリティーと重なるはずである。
東大闘争についての記述を見ていくと、尾城の『社会的責任』論文と雰囲気がよく似ていることが分かる。比較対照のため、改めて論文の冒頭を以下に引用する。
そこにあるのは、「学問とは何か」という全く同じ問題意識である。「既存の価値体系・学問研究への批判・告発」を提起した大学紛争とはまさしく東大闘争のことであり、尾城が在籍していたのは慶應義塾大学ではあるものの、同じようにエリートコースを確約された "学者のタマゴ" たちの声に共鳴していることが確認できる。
「学問とは何か」という問題提起だけでなく、自らが特権階級であるという「原罪」の意識もまた、尾城は有していた。尾城が「韓国、台湾、東南アジヤ等現地住民、アジヤ民衆の対日批判・告発」を指摘し、「『近代化』・『開発』の対象・客体たることを強いられた、あらゆる底辺的世界」に注目するとき、そこには、自らが享受する特権の背後には虐げられた人々がいるという意識があったはずである。
ただし、東大闘争が1969年にはすでに事実上の終わりを迎えていたのに対し、尾城の論文が発表されたのは1974年であり、そこには5年間のタイムラグがある。だからこそ尾城は「研究当事者の受けとめ方は、必ずしも真摯な、謙虚なものであったとはいえない」という批判を付け加えているのだが、すでにこのときは1972年の「あさま山荘事件」の3年後なのである。この事件をきっかけに、学生運動や大学闘争に対する社会的な非難と嫌悪が巨大化し、大学生たちも全共闘の失敗を繰り返すことを拒んだので、もはや大学は闘争の場ではなくなった。このような情勢下で尾城は「闘争」を挑んだのであるから、他の研究者たちからはひどく時代遅れに見えただろう。
少し話が逸れたが、尾城と全共闘の類似点はこれだけにとどまらない。団塊世代は、幼少期を発展途上国状態の社会に生き、青年期以降を先進国状態の社会に生きた世代であるため、その内部に不協和を抱えていたのである。
尾城もまた、社会の激変のなかで不協和を抱き、「疎外」という言葉に飛びついた。尾城が、高度成長期における中小企業論の科学主義的態度を「トータルな人間生活を、徹底的に物化し、細分化し、単純化し、抽象化して、人間疎外を極限にまで突き進めてしまった」と批判するとき、それは「社会がおかしな方向にむかっている」という感覚に支えられていたはずである。
社会が、そして人間生活が、あるべきではない姿になり果てているという感覚が、尾城の場合には、「非人間化した、高度な管理状況に対する若年層の抵抗感」、「人間存在の原点に立ち返っての自らへの反省が求められている時代」、「大衆の伝統的生活構造を破壊し、『近代化』を強制する重化学工業化、科学・技術革命を武器とする巨大資本の論理によって推進される欲望の無限の開発、大量生産=大量浪費文明の形成、という過程」といった言葉になって表出している。
結局のところ、尾城の『社会的責任』論文は、東大助手共闘会議とほとんど地平を共有している。まず、第一の「学問とは何か」という問題提起と、第二の「原罪」の意識は、完全に東大助手共闘の地平にある。第三の「社会がおかしな方向にむかっている」という感覚については、より広く、大学闘争一般に共有されていたと言えるだろう。ただし、自分たちこそが社会のむかう方向を修正しなければならないという責任意識の強さは、やはりエリート中のエリートであった東大助手共闘とよく似ているのである。
しかし、尾城は、東大助手共闘の場合には生じなかった問題に対処する必要があった。尾城はマルクス主義用語の「疎外」をキータームとして、中小企業研究に対して「学問とは何か」という問いを突き付けたが、中小企業研究のほうも同じくマルクス主義に立脚していたのである。そのため尾城は、マルクス主義に立脚しながらマルクス主義を批判するという困難な状況に追い込まれた。
ここで尾城が採用したのが、既存の中小企業研究は、レーニンやスターリンによって歪曲された「マルクス主義」を根拠にしている、という論法であった。『社会的責任』論文では、尾城が立脚するものこそが「本来のマルクス思想」であり、中小企業研究は「マルクス主義」を掲げているが「本来のマルクス思想」とは逆方向を向いている、という主張が展開されることになる。実際に、尾城はこのように述べている。
このような事情から、『社会的責任』論文では、「学問(中小企業論)はいかにあるべきか」という問題提起と、「本来のマルクス思想とは何か」という問題提起が、密着して絡み合っている。もちろん尾城は、中小企業論は本来のマルクス思想に立脚して、人間疎外の社会状況を克服するために、社会に対して主体的に働きかけていくべきだ、と結論づける。
しかし、少なくとも「本来のマルクス思想とは何か」という問題提起は、年長の研究者には理解すらされなかったに違いない。前述したように、初期マルクスの『経済学・哲学手稿』の日本語訳が出版されたのが1963年であり、マルクスの「疎外論」が日本で注目を集めたのは1960年代後半のことだった。その疎外論への注目も、若者たちの社会全体に対する漠然とした違和感に支えられてのことだったため、「第一次戦後世代」の研究者たちは、疎外という概念でそもそも何が問題にされているのかすら分からなかっただろう。晩期マルクスの『資本論』になると「疎外」についてほとんど言及されなくなるので、マルクス自身が成熟とともに捨てた概念を掘り起こして何になる、という批判すら可能だったのである。
こうなると、もう片方の「中小企業論はいかにあるべきか」という問題提起も理解されないのは当然である。こちらは、問題提起そのものとしては理解可能であるとしても、その結論が「本来のマルクス思想に立脚すべきだ」というのであれば、年長の研究者は戸惑うだけだっただろう。
さらに悪いことに、尾城は、1970年に至るまでのほとんどすべての中小企業論を一面的に断罪してしまった。学問とは先行研究を基礎とした積み重ねであるが、その先行研究のすべてを自らの主張に敵対させてしまった尾城は、自ら中小企業論における居場所を失ったのである。
先行するあらゆるものを一面的に断罪するという悪癖は、実は、東大闘争とも共通していた。東大闘争もまた、敗戦後に生まれた思想を「戦後民主主義」として一面的に断罪したのであるが、それによって年長知識人たちの支持を失ったのである。
要するに、尾城の『社会的責任』論文は、東大闘争の地平から出発しつつ、その地平を乗り越えることなく書かれた。闘争の世代の社会意識をふんだんに盛り込んだ論文は、やはり闘争と同じような結末をたどったのである。このように結論づけるのは、あまりにも冷酷だろうか。
〔2024/10/02追記――ここでの「敗戦後に初等教育と中等教育を受けた世代」という推定は誤りである。正確には、尾城は1925年ほどの生まれであり、大学に進学するころに敗戦を迎えていたはずだということが判明した。詳細は拙稿「尾城太郎丸についての補注」を参照のこと。〕
○ 中小企業論の質的転換
尾城の『社会的責任』論文は、研究者たちから黙殺されても仕方のないものだった。とは言え、「中小企業論はいかにあるべきか」という問題提起は、研究者たちも真摯に受け入れるべきだったのではないだろうか。
中小企業論の歴史は、1980年代から1990年代を境にして、マルクス主義的な経済構造論がマジョリティを占める時期と、企業家精神主義的な経営論がマジョリティを占める時期に分かれている。一見すると奇妙に見えるこの変化は、しかし、尾城の『社会的責任』論文への研究者たちの対応に織り込まれていたと考えることができる。
そもそも、プロレタリア革命を目指す「マルクス主義」は、社会の大部分が物質的に飢えているような社会にあってこそ説得力を持った。戦前から戦後にかけてのマルクス主義的中小企業論も、当然そのような社会状況を前提としているので、高度成長を経て「大衆」が物質的には満たされるようになると、そのような理論は説得力を失うこととなる。
発展途上国から先進国となった日本社会で、マルクス主義的な議論を継承していくためには、固定的な「階級」を想定する公式見解から離脱して、若者たちに受け入れられていた「疎外」をキータームにマルクス主義を読み替えていく必要があった。近代的な社会問題としての「飢え」から、現代的な社会問題としての「実存」へと、学問的な対象を切り替えるべきだったことは明白だと思われる。
マルクス主義的中小企業論は、社会的な問題としての「飢え」がおおむね解決してもなお「階級」的な議論にとどまったことから、 "研究者のタマゴ" からはその意義が理解されなかっただろう。とは言え、マルクス主義的な議論には、社会の全体を捉えるという大きな意義があるのだが、そのような研究も若手研究者には継承されなかった。
若手研究者は、階級論的な中小企業論には関心を示さず、むしろ好況のなかで注目を集めていた「ベンチャー」や「研究開発型中小企業」の経営論的な研究へと参入していった。こうして中小企業論は、社会の変化についていけなかったマルクス主義的経済構想分析と、社会の最先端で個別事例を扱う経営戦略分析とに分裂したのである。そして、後者が現在におけるマジョリティとなっていることは言うまでもない。
このことが中小企業論という学問領域に与えた損失は計り知れない。マルクス主義的経済構造論は、たとえ「階級」という老朽化した概念をキータームにしていたとしても、日本経済(あるいは世界経済)の全体を射程に収めることができた。すなわち、中小企業という窓をとおして経済構造や社会構造を見ていたのである。しかし、経営論的な研究では、そのようなビジョンを持つことができない。経済構造や社会構造を捉えるからこそ、中小企業論が中小企業政策の根拠として機能していたにもかかわらず、経営論的な研究に傾斜した中小企業論はその役割を果たすことができないのである。
尾城の『社会的責任』論文は、もはや「階級」は経済構造分析や社会構造分析のキータームとしては適切ではない、ということを告発した点で、大きな潜在的意義があった。もし年長の研究者たちがこの指摘を真摯に受け止めていれば、文字通りの「社会の総体的認識」、すなわち経済から実存までを広く射程に収めた社会学的中小企業論が成立していただろう。あるいは、総合政策学的中小企業論と呼んでも構わない。しかし、年長の研究者たちは尾城の指摘を黙殺し、従前の研究方針を固持した。こうして若手研究者たちは、マルクス主義的経済構造論とは距離をとり、「経済」や「社会」ではなく「企業」や「戦略」を論じるようになったのである。
このことは、未だ仮説の域を出ない。しかし、この仮説が妥当するならば、中小企業論でたびたび言及される「問題性」と「貢献性」の論争は、通常説明されるよりも複雑な背景を持つことになる。そもそもこの論争は、マルクス主義と自由主義のイデオロギー論争に密着しているはずであり、価値観史的な観点から中小企業論を捉えなおす必要があると思われるのである。
結局のところ、中小企業論の質的転換は、社会意識の転換と同じように、マルクス主義から自由主義への転換であったのではないか。それも、マルクス主義から自由主義への単純な転換ではなく、階級論的なマルクス主義から実存論的なマルクス主義へと価値観が移行するなかで、実存論が自由主義へと横滑りした結果ではないだろうか。
中小企業論を成立させる価値観の歴史と、日本社会を成立させる価値観の歴史は、おおむね対応しているのではないか。つまり、中小企業論は、内部でパラダイムシフトが生じるような万世一系の学問ではなく、外部からパラダイムシフトがもたらされるような社会意識的な学問だったのではないか。この仮説を立てて、本稿を締めることにする。
※ 以上の文章は、2024/09/25時点における私の見解である。将来的に、見解が修正ないし更新されることをご理解いただきたい。もし見解が修正ないし更新されるとしても、私自身の思考の軌跡として、この文章はそのままにしておこうと考えている。