
舞台芸術周遊記 -- ラインの黄金
2025年2月11日、パリのオペラ・バスティーユにて。
おお、ドイツの歴史書だ。
「負けた」と書くだけでこの厚み?
(イギリスの車番組「TopGear」より)
おお、ビエイトが演出したワーグナーだ。
ところで、この文章はなんだ?
「つまらなかった」と書くだけでこの長さ?
* * *
オーケストラと歌唱は素晴らしかった。すべての揺籃たるライン河、光り輝くラインの黄金、愛を断念するアルベリヒ、雄大にそびえるワルハラ城、フリッカの悲愴な叫び、労働の対価を求める巨人たち、ゆらりゆらりと戯れるローゲの炎、アルベリヒに支配されたニーベルハイム、世界を支配する力を持った指輪、エルダの警告、ワルハラにかかる虹の橋……。
総評すれば、「目をつぶれば優れたオペラ」ということになろう。
しかし、それを台無しにしていたのがカリスト・ビエイト (Calixto Bieito) の演出である。言ってしまえば、下品で、中途半端で、意味不明。まあ、もとより期待はしていなかった――むしろ、どのくらい「評判」通りなのかを期待していた――のだが、それを遥かに超えてくる荒廃ぶりだった。
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パンフレットを見ると、次のようなコンセプトが書いてある。
ビエイト氏はチームとともに、ハイテクノロジーの世界で私たちは今どのように暮らしているのか、といったさまざまな疑問を探求している。テクノロジーは私たち人間にどのような影響を与えるのか。それは私たちの人間関係にどのような影響を与えるのか。そして、人工知能は私たちの社会、私たちの行動、私たちの存在をどのように変えるのか。
(原文はフランス語)
なるほど、ビエイトの念頭にあるのはハイテクノロジー社会のようだ。このコンセプトそのものは、それほどおかしくない。古典作品の現代的解釈と言う文脈では、まあ、まともな方だろう。
何が問題なのかと言うと、ビエイトのそのコンセプトが、舞台からは全く伝わってこないということである。たとえ下品な演出があったとしても、その演出にきちんと意図と必要性があり、それがちゃんと観客に伝わるのであれば、良い演出と言える。しかし、今回の舞台はそうではない。舞台で見た『ラインの黄金』と、パンフレットにある『ラインの黄金』が、まるで異なっている。演出家の仕事を、空想上のコンセプトを舞台に落とし込むことだとするなら、ビエイトは演出家としてゼロ点である。
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『ラインの黄金』において、世界を支配する力を与える〈指輪〉は、女の愛を断念する――決して女性から愛されないという呪いを受ける――ことによって獲得される。そのときのアルベリヒのセリフは次のとおりである。
この黄金の力で、世界中の富が手に入るだと? とすればだ、愛を無理強いすることは叶わぬにせよ、富の力で快楽をわがものにすることは、できない相談じゃないってわけだ。
愛と性的快楽は、決して不可分ではなく、前者はお金で買えないとしても後者はお金で買うことができる。アルベリヒはこの発想によって、愛を呪うことができた。ワーグナーの脚本では、このテーマはこれ以上深掘りされないが、このテーマを発展させたのがビエイトの演出である――少なくとも、舞台としては。
ニーベルハイムは、原作では「鍛冶の地下帝国」だが、今回はラブドールの研究所だった。研究所にはたくさんの人体模型が転がっていて、気味の悪い空間を構成している。それらはすべて身体の一部を模したものであり、たとえば腕だけを模したもの、下半身だけを模したもの、頭部だけを模したものがある。しかし、ただひとつだけ全身を再現した女性型のラブドールがあって、そのラブドールは自分で動くことができる――黙役の女性ダンサーが演じているのだ。どうやらアルベリヒは、この完璧なラブドールの開発に執念を燃やしていたらしい。それは愛こそ与えないが、その人工知能によって至高の快楽を与えるだろう。
「ラインの黄金」という副題のつけられた四部作の序章では、世界は権力者や富裕層、自らを神とみなす人々の保護された贅沢な上層世界と、富を夢見てヒューマノイドを生み出すアルベリヒの不穏な下層世界に分かれている。そのヒューマノイドは、人間のように見え、人間のような性質を持つ人工の生命体だ。それは二足歩行し、人工知能を持ち、話すことができ、感情を表現することさえできる。
(原文はフランス語)
巨大なスクリーン――第4場ではこれが展開してワルハラとなる――に映し出されるのは、やはりラブドールである。その身体にはたくさんのコードが繋がれ、その瞳に生気はなく、まるで粘土か陶器のような肌の質感を見せている。「不気味の谷」のどん底に該当するそのラブドールの映像はあまりにも気色が悪く、しかも、それがループ再生なのである。ストーリーの展開に合わせて映像が新たな展開を見せるわけでもなく、ただ観客の不快感をあおるだけの品性のカケラもない演出に、私は唖然とした。
しかし、何が最大の衝撃だったかと言えば、ストーリー展開において、このラブドールが全く重要な役割を果たさないことである。巨大なスクリーンを用いてラブドールの不気味さをさんざん強調し、女性ダンサーを用いて完璧なラブドール――二足歩行し、人工知能を持ち、話すことができ、感情を表現することさえできるラブドール――を表現し、そのラブドールがよく売れていることが示唆される――アルベリヒの研究所にはたくさんのお金が置いてある――にも関わらず、それは第3場だけの限定的な役割に留まる。
やろうと思えば、このラブドールはストーリーの中でいくらでも活用できる。たとえば、これがフライアの身代金として機能する、というのはどうだろう。ワルハラを建設した巨人たちは、その対価としてフライアを求めていたが、それは彼女がもたらす「愛」と「快楽」を望んでのことだった。それゆえにこそ、ラブドールはフライアの代替品として機能しうる。アルベリヒの開発した完璧なラブドールは、巨人たちに愛を与えることはできないにせよ、フライアを超える快楽を与えることができるはずである。あるいは、ヴォータンがワルハラにラブドールを持ち込む、という展開も可能だったのではないか。妻のフリッカを愛しながらも、フリッカよりもラブドールのほうが "気持ちいい" からである。「妻よ、ついてくるがよい。ワルハラに、ともに住まうのだ」と言いながら、ラブドールとともに歩みを進めるヴォータンは、なんと滑稽だろう。いずれの演出にしろ、アルベリヒが愛を呪うことによって生み出したラブドールが、物語のカギとして重要性を発揮する。
しかし、ビエイトはこれらの演出をしなかった。彼の演出は、考えられる限りで最悪である。すなわち、すべての財宝をヴォータンに渡して解放されたアルベリヒは、ニーベルハイムにラブドールを持って帰ってしまう。これでは、彼は何も失ったことにならない。なぜなら、そのラブドールによって彼は快楽を得ることができるだけでなく、そのラブドールこそが富を生みだす〈資本〉だからである。おそらく完璧なラブドールは今後も売れ続け、彼はすぐさま資産家に返り咲くだろう。
このような不整合を残すようでは、原作の世界観を改変することは避けるべきである。確かにアイデアは立派かもしれないが、そのアイデアをストーリーに落とし込む技術が、ビエイトには不足している。
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もうひとつ、フライアの扱いについては言及しておかねばならない。今回の『ラインの黄金』のフライアは、みすぼらしい服を着て、その服に合わない緑色のゴム長靴を履いて、可愛らしくも美しくもない仕草をしていた――第2幕のフライアは、ヴォータンが投げ捨てた大量のリンゴを、ずっとバケツに拾い集めているだけだった。
フライアは、言うまでもなく〈美〉の女神である。彼女が〈美〉の女神だからこそ、巨人たちもワルハラ建設の対価として彼女を求めたのである。フリッカもまた、「可愛らしい我が妹」という発言を頻繁にしている。だからこそ、今回の演出は、北欧神話におけるフライアを脱構築したのだろうと考えた。外見的な美しさがなくとも、性的欲望の対象にはなり得る――その最たる例が「トルソー型」や「下半身型」だろう。まさにラブドールのような存在として、フライアが演出されているのだろうと、その場で私は考えたのである――ラブドールがフライアの身代金として機能するのではないか、という前述のアイデアは、この直感に由来する。
しかし、どうやら違うようだ。公演パンフレットには、ビエイトのインタビューが掲載されている。そこで、フライアは「美しく教養のある妻」の頂点だと明言されているのだ。
最初の場面から、ラインの乙女たちはアルベリヒと残酷なゲームをする。最初は彼に愛をちらつかせ、次に彼を嘲笑し、最後には虐待する。「それはあたかも、貧しく、粗野で、野暮ったい男が上層世界に溶けこもうとしているとき、『億万長者になることによってのみ、いつかその社会を支配し、美しく教養のある妻を買うことができる』と告げられたようなものです。選択は彼に課せられました。私たち何千人もが毎日愛を放棄するのと同じように、彼も愛を放棄します。その瞬間に、黄金は彼の力となります」〔と、ビエイト氏は語る〕。〔...〕フライヤは、その頂点において、それを買う余裕のある少数の幸運な人々に永遠の若さと美しさを保証するものであり、高度に発達した社会における真の経済的ベクトルである。
(原文はフランス語)
だとするならば、今回の演出は間違いである。舞台上のフライアからは、教養も美しさも感じなかった。むしろ、教養も美しさもなく、気品もファッションセンスもないような女性を巨人たちが欲しがっているのは、彼女が性的欲望の対象として優れているからだ、という解釈の方が自然になってしまう。それでこそ「完璧なラブドール」とフライアの対比が鮮やかに前景化するのであるが、これはビエイトの意図した演出ではない。
加えて、公演の最後にも不可解な点があった。登場人物たちがワルハラに入城するときに、フライアはポツンと置いていかれるのである。もちろんワーグナーの脚本では、彼女もまたワルハラに入城する。今回の演出では、なぜかドンナーとフローが先にワルハラに入っていて、そこにヴォータンとフリッカの夫妻が後から入るという順番だった。フリッカ、ドンナー、フロー、フライアの四者は兄弟姉妹という設定なので、やはりフライアだけが取り残されることの違和感はぬぐえない。どうせ彼女を置いていくなら、巨人たちにフライアを引き渡してしまっても良かったではないか。
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他にも、言いたいことは山ほどある――アルベリヒが何かよく分からないチューブのようなものを大量に背負っている、ラインの乙女は潜水服をだんだん脱いでいく、第1場の最後になぜかワーグナーの顔が大きく映し出される、ヴォータンの〈槍〉が鉄パイプでダサい、ドンナーはなぜか黒人でドジャースのキャップをかぶっている、巨人であるはずのファゾルドが韓国人でとても小さい、ファフナーがカウボーイのような恰好をしている、フリッカがたびたび夫の〈槍〉を振り回して遊んでいる、エルダがただのおばさんで威厳も何もない、ミーメは乳首から血を流している、などなど。
だが、こういうことに文句を言っているといくら時間があっても足りないので、最後にビエイト氏のインタビューを載せておこう。
「ワーグナーの『ニーベルングの指輪』は残酷な物語です。それは、社会、人間本性、操作〔詐欺〕、貪欲さ、そして社会の最小単位である家族にまで浸透するエゴイズムについての、慈悲のない物語です」と、ビエイト氏はインタビューで語った。「『指輪』は、私たちの存在、不条理な闘争、私たちの空しい欲望、そして、個人、家族、社会の崩壊に直面した深い絶望のイメージで満ちています。それは人生と同じように残酷で非現実的です。私たちは、不連続な物語を選択しました。その物語では、過去と未来とが絡み合います。私たちは、完全な情報と私たちの生活の完全な監視の光の暗闇のなかで、ビッグデータから始めます。その後、私たちは感情的な黙示録、あらゆるレベルでの戦争、原生林の汚染へと突入し、最後には記憶と未来の喪失に陥ります。私たちの環境の憂慮すべき状況、人間と自然を破壊している残酷で不健全な経済を背景にした家族ドラマ。個人的かつ共有的な恐怖の幻覚」
(原文はフランス語、太字強調は引用者による)
「『ラインの黄金』で最後に勝利するのはハイテクノロジーです」と、ビエイト氏は説明する。「私たちの神はもう存在しません。なぜなら、特定の人々が自分自身を神だと思っているからです。自分は不死だと信じていたアップルの共同創設者スティーブ・ジョブズやカリグラ〔古代ローマ帝国の皇帝〕のことを考えてみてください。リヒャルト・ワーグナーも自分自身を神だと考えていた可能性があります。古代の神は人間が発明したものでした。今、私たちは新しい神を創るために、すべての情報をインターネットにアップロードしています。全てを知り、全てを支配する、新たな全能の神。昨今の暴力の増加、憎悪を教え恐怖をあおる政党、もはや事実ではなく信念に関心をもつ感情的な政治を前に、何が起こるのか私たちは疑問に思う」
(原文はフランス語、太字強調は引用者による)
もちろん、これらの紹介文は全く舞台を説明していない。
