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「悪口」を言う側の言い分とその危険について

 今日も必死に生き抜きました。SHINOです。

 私が必死に生き抜く羽目になっている理由の一つが、派遣職員さんの悪口なんだけど、これがひどくて、就業時間前の朝早く来て悪口、就業中も暇があれば悪口。受動喫煙しない権利も守られてきていることだし、他人の悪口を聞かない権利も保証してもらえませんか?という感じだ。

 しかし、どうやら悪口ばっかり言っている派遣職員さんが言うには、「好きとか嫌いとかいう話はしていない。私たちが言っているのは悪口ではない。ただ仕事の話をしているだけ。」ということらしかった。

 確かに派遣職員さんたちが言っているのは、要するに「●●(派遣元)から来る人は仕事ができない」という悪口に象徴されるように、「ポットの水汲みもしない」(本当はやっている)だの「電話が鳴っているのに取らない」(それは電話が隣の机にあるから鳴っていることに気づかなっただけだろう)だの、確かに業務のことではある。
 悪口を言われている派遣職員さんを一人座席に残して、他の皆で作業したり、他の皆でどこかに数十分間離席したりしているけど、それも何らかの言い分で正当化できるつもりなんだろう。

 でも、よく考えてみてほしい。

 小学校にスポーツ/勉強ができない子供がいたとする。他の子供がそれをあげつらって、皆で悪し様に罵って馬鹿にした。そのうちスポーツ/勉強ができない子供は孤立していく。
 これってイジメじゃない?

 小学生がやったらイジメだけど、社会人が同じ事をやったらイジメじゃなくなるのか?
 社会人がやれば「好きとか嫌いとかいう話はしていない。私たちが言っているのは悪口ではない。ただ仕事の話をしているだけ。」という言い分が通用するのか?という話だ。

 社会人だからって、そんな言い分通じるわけないよね。
 小学生だったら…なんて例示を挙げなくても、「なんか変な言い訳だな」と思うんじゃないかな。

 派遣職員さんたちは、「好きとか嫌いとかいう話はしていない。私たちが言っているのは悪口ではない。ただ仕事の話をしているだけ。」という言い分で自分たちの悪口を正当化してきたツケで、客観的な視点を失って、そんなことも分からなくなってしまったらしい。

 何かものすごく勉強になったんだけど、正当化することには、客観的な視点を失うという副反応があるってことだな。
 自分のやることを正当化する必要があるくらいなら、最初から行動に移さない方が賢いってことか。

 ちなみになんだけど、この話はすでにエスカレーションしてあって、管理職も手をこまねいている。
 まあ正直、派遣職員さんの人間関係なんかに手が回らないくらい忙しいし、そんなことに首を突っ込んでも、最長3年間で契約満了して退職する職分なので、関与すること自体がただのコスト。

 皆にとって過ごしやすい職場なんていうのは、絵に描いた餅でしかないっていうことなわけだ。

 そもそも私だって、派遣職員さんたちが一人のことを寄ってたかって悪口言ってるのを見て、「怖い」としか思わないし、挨拶だろうと何だろうと、一言でも喋ったら悪口のネタにされると感じている。

 ちなみに色んなところで観察していて気が付いたんだけど、悪口っていうのはどんなに正当化してもどんどん肥大化していって、専横的行動に至るようになるので、社会で難なく過ごしたいのであれば、そもそも悪口は言わない方がいい。

 例えば私の会社で言うと、年末年始に誰かカレーを持参し、会社のスポンジで洗ったことが発覚した。
 というのも、スポンジにカレーの着色汚れ・油汚れが残っていて、そのスポンジが使えなくなったことを派遣職員さんたちが見つけて大騒ぎしたからだ。
 派遣職員さんたちは、管理職の許可も得ず、自分たちの判断で給湯室に「カレーのような着色汚れ・匂い・油汚れがある食器は自宅で洗ってください」とポスターを掲示した。

 私が驚いたのは、管理職の許可も得ず、自分たちの判断でポスター掲示しても許されると派遣職員さんたちが判断したことだった。それって派遣職員の権限内なのか?
 派遣職員さんたちの心のうちは観察する分でしか分からないけど、悪口を言って、それを正当化しているうちに、だんだん行動が大きくなっていって、管理職の許可なくポスター掲示することも正当化してしまったんだと思う。

 社会で目立たずソツなく過ごしたいのであれば、まずは悪口を正当化しないことが第一歩だな、としみじみ思う。

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