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美の考察  「もの」     本多裕樹

芸術の書

2「もの」    

 もの、物、物質、そのものに力がある。絵でもそうだ。力がある絵というものがある。ただ力だけの峻厳な程のパワーの絵画が、それを描こうと力だけを抽出し、物にしていく。物質に、生命のエネルギーそのものをキャンバスに創造する。

 ジョルジュ・ルオーの宗教画には分厚い厚塗りの絵の具に、モチーフ以上の精神の力を宗教的信仰心を祈りを込めて絵の具を塗り込めていく。それは力だ。そして物以上のエネルギー。

そのエネルギーそのものに力がある。

ものはエネルギーそのものなのだ。

 それは宝石のような、鉄のような、重厚な圧力を引き出し、描いていく。作家自信を超えた力を呼び覚ます。それは縄文芸術のような野生さと原始的な力。シャーマンのような演舞が芸術となる。ものに力があった。

ある絵を鑑賞している。

その作家をよく知っている。

 センスで描かれた知的な絵であることは観ればわかる。鋭敏であり才気が溢れている。そんな絵を見て、刺さるものがあるし魅力がある。とても、異質な美しさがある。背徳感すらあるギリギリのスレートの鋭い才能で描かれた線描、色の配置がシンプルですっきりしたり微妙に色が塗られている。浮世絵のようであり、現代でも通じる光る絵である。その絵ですら、力がありエネルギーがある。この絵は「もの」の力に頼らなくても、才気ですべてを創造していく。才能だけが力になっている。芸術のイデアの愛された画家であろう。このような才能活発な時期はいつまで続くだろうか。できれば永遠に美を表現してもらいたい。

ある絵を鑑賞している。

その作家はかつてあった。

 この絵はやはり、才能と努力の塊で狂気すら感じる。それは誰もが行ける境地ではない。日々の努力、才能を越えた努力の結晶の絵である。才能に目覚め、力を込めた表現、男性をそのままぶち込めた爆発的な絵画は誰をも圧倒しようと我々に訴えかける。これは趣味で描けるものでない。普通の力ではない。趣味を越えて圧倒的な力が一筆、一塗りに込められている。誰もが描ける絵ではない。努力を重ねた人でないと描けない「もの」力であること。

「もの」に力を宿らせるには、才能や努力がいるし、個性の強さも必要だ。ものは力そのものなのだから。

訴えるものがなければならない。力が必要だ。そして、未成熟で迷い、芸術の極地を無心に進まなくては行けない場所である。そこに力のほとばしりもあるし、才能の表現のテクニックに力が線や色に満ちていく。

それも一部の才能ある人がいけるのか、

人生の質か?

不運か、不幸、金欠、貧困、光り、

そういう境遇から生まれる芸術の力が傑作に一歩近づく。傑作は不幸から生まれる。それらの作品が発表されるとき、鑑賞者たちは驚くのだ。そのエネルギーに、力に、物質の厳かな力を、才能と力、努力が名画を創造し、力を出現させるのだ。

 作家自身がその力量を超えたような傑作を作る事がある。悲劇と愛が名画を創造し、ムンクの傑作を出現させる。その時期、その時にしか描けない絵を、それは時代を越えて名画となるだろうし、その熱意が芸術の質になるし、それを越えて作家自身もわけがわからない傑作ができる事もある。そういう画家こそ本当に芸術家なのではないだろうか?芸術にのめり込んで表出していく。人生を塗り込める命がけの制作。作品、。ときどきそういう傑作ができる。そして、それから落ちていくか、維持していくか、いなくなるか。名画というのはひと時ではあるが一度はそういう名画を、傑作を制作してみたいと思う。

もの、それはエネルギーそのものだ。

才気と努力と熱意、命を捧げたような一幅の絵画は力の表現の場であること、

2024/09/01 本多裕樹


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