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静止しつつ流れゆく川 ⑧

アチャン・チャー

 簡単な例を挙げてみましょう。あなたには子どもがいると、想像してみてください。その場合、子どもに対して一切の憎しみを感じず、愛情だけをもって子育てができるでしょうか? そう思うのは、人間というものの性質を、よく知らない人の考えです。誰かに対して愛情を持てば、そこには憎しみも付いてくるのです。それと同様に、世間の人々は智慧パンニャを身につけるためにダンマを学び、善と悪について理解しようとします。さて、善と悪についての知識を得たあと、彼らはどうするでしょうか? 善に執着するのです。ですが、善には必ず悪が付随します。結局のところ、彼らは善と悪を超越したものについては、何も学ばなかったのです。そしてそれこそが、今日、皆さんが学ぶべきことなのです。
 
 世間の人々はこう言います。
「私はこうなりたい、ああなりたい」
と。しかし、彼らは決して、
「私は何者にもならない。なぜなら、本当の『私』なんて存在しないのだから」
とは言いません。こうした考えについては、学んだことが無いのです。彼らが求めるのは善だけです。そして、善を手に入れれば、それに執着します。ですが、物事が善であることを求めすぎると、それはやがて悪へと変質します。このようにして、世間の人々の人生とは、善と悪との間を行ったり来たりするものになってしまうのです。
 
 心を静め、感覚の対象を認識するものを意識するためには、観察を続けなければなりません。「知る者(気づきサティ)」に従うのです。そして、清らかになるまで、心を育てるのです。では、どれくらい心が清らかになるまで、修行を続ければいいのでしょうか? もし本当に心が清らかになっているのなら、心は善と悪、そして「清らかさ」という概念さえ超越しているはずです。そのとき、私たちの修行は、完成したと言えるでしょう。
 
(続く)

アチャン・チャー『Living Dhamma』より
 
"Living Dhamma", by Venerable Ajahn Chah, translated from the Thai by The Sangha, Wat Pah Nanachat. Access to Insight (BCBS Edition), 30 November 2013, http://www.accesstoinsight.org/lib/thai/chah/living.html .
 

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星 飛雄馬
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