一葉の心持と燕子花
家の前で鉢が割れていた。
それはある日リサイクルショップで買った、イタリア製で紺色のぽってりとした陶器の鉢だった。その時は綺麗だと思って惚れたものの、それで植物や小魚を育てることに気後れした私は――だって枯らしたり死なせてしまったら可哀想だから――甲斐性なく持て余して、漫然と庭先に飾っているような有様だったので、それが壊れたところで、(少し残念ではあったけど)片付けるのが面倒だな、といった程度の心持ちしか湧かなかった。
倦怠感を覚えながら一番大きな破片を拾い上げると、そこに、みょうがの芽のように若紫色を帯びた一葉の紙きれがあった。それを見つけた時の私は強く心を打たれた。四つ折りのしわは丁寧にのばされ、仄かに砂埃を被ったその五千円札は、風が吹き込んでも飛ばされないよう四隅には律儀に小石が置かれていて、それはまるで、宛て所のない祈りに捧げられた置き手紙のように思われた。
鉢を置いていたのは、角地とはいえ、〈いけず石〉のあるような引っ掛けやすい場所ではなかった。でもなんとなく、何かの拍子に折悪く手を突いてしまう事もありそうな、そんな位置と高さにも思えた。しかし故意ではなくこんな場所から鉢を落とすような人があるとしたら、それはよほど普段から落ち着きがないか、心身の不全を押して通りかかった人であるとしか思えなかったのは、私の母が身体が悪く、しょっちゅう何かにぶつかったり掴まったりしながら歩くのを想起したからであって(あるいは、樋口一葉ののっぺりとした丸顔が、昔の母に似ていたからかもしれない)、また私自身がそそっかしく、何かをしでかした折、「何でよりにもよって、これがここに……」と思う事も少なくなかったからだ。だからつい鉢を割ってしまった人の、そんな生きづらさを想って、胸が苦しくなった。
それからよく見ると、鉢の破片は、片付けやすいように一箇所に寄せられた形跡があった。ところどころ拾いきれなかったのであろう細かな破片が、やや離れたアスファルトの隙間に残っていて、本来どのような形でそれが砕け散っていたのかを物語っている。それに気づいたとき、私はその瞬間を、目撃したかのように眼前に思い浮かべ、そして、それに続く光景に心揺さぶられた。
――ガシャンと音がした刹那、彼女(彼かもしれない)は肝を冷やしながら、その音のした方に振り向いた。自分の不注意で誰かの大切な物を壊してしまったに違いないと思い、ぎゅっと胸を締め付けられ、自らの不具を責め、恥じ、恨みながら、駆け寄り、屈んで、祈るような気持ちで、ひとつひとつ、できるだけ念入りに破片を拾い集めた。それでも気が収まらず、せめて償いの足しになればと、財布の中で蕾んでいた一葉の貴重なお札を摘んで、それを拡げ、折り目をよく延ばし、その気持ちが私に届くようにと、――それが意図した通りに私の目につくように、それでいて盗られたり、逸失してしまわないように、今度こそ、細心の注意を払って、――きっとそれは推敲して手紙を書くような心持ちで置かれたのだろうと思うと、なんだかいとおしくて、下駄箱に入れられたラブレターのように、手に取りそっと拭って裏返してみたりした。
そのとき私は、そこに燕子花が描かれていることに気が付いた。それは偶然かもしれない。――いや、はじめからすべて私の想像の域を出ない話だ。だけど私は、私の心持の空ろな器を傷つけたことを、これほど気に揉んでくれる人がいるのだという事に、なんだか嬉しくて救われた気持ちがした。それから、その人の高潔な心持ちに幸あれと願った。あなたの壊した鉢は大したものじゃないし、少なくとも、あなたは知らんぷりして逃げることもできた。なのに留まり、できる限りのことをしてくれたのを、かたじけなく思う。むしろそこに鉢があったのは、私の方が知らんぷりして逃げてきたからである。あなたのように、他人を想い、それでも傷つけてしまい、それが生きづらくても、歩むことやめない、その真摯な生きざまこそ、燕子花のように尊くて美しいものだと思う。
私はいつかその空っぽの鉢に、紫色の鮮やかな燕子花を咲かせて、見知らぬ誰かへの一葉の心持に添える事ができたらと、そう願った。
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