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『シェリング以後の自然哲学』で登場するカント、フィヒテ、シェリングの時代はどんな時代だったか(メモ)

 グラントによるシェリング以降の自然哲学に関する著作を読もうとしています。まず、知っているのが当たり前という前提で書かれている文献なので、その当たり前についてシェリングらがいつ頃の時代の人なのか調べてみました。


登場人物 カント、フィヒテ、シェリング


 カント Immanuel Kant(1724.4.22〜1804.2.12)東プロイセン王国 ケーニヒスブルク(現在のロシア連邦カニーリングラード バルト三国とポーランドに囲まれたロシア飛び地)の生まれ。
 フィヒテ Johann Gottlieb Fichte (1762.5.19〜1814.1.27)神聖ローマ帝国ザクセン選帝侯領の生まれ。
 シェリング Friedrich Wilhelm Joseph von Schelling(1775.1.27〜1854.8.20)神聖ローマ帝国ヴュルテンベルクの生まれ。医薬品のメーカーで今世紀になってバイエルと合併したシエーリングScheringという会社がありますが、これまでごっちゃにしていましたが、日本語の表記と原語の綴りが異なるので区別する必要があります。
 3人ともドイツ人ということで良いと思います。
 ざっくりと見ると、18世紀〜19世紀の人ということになります。
 ちなみに、17世紀には、イギリスやオランダで東インド会社が作られ、イギリスでピューリタン革命、王政復古、名誉革命と起こりましたが、このような政治的な動きはその後の欧州の動向に大きな影響を与えました。17世紀を代表する哲学者として、ニュートン Sir Isaac Newton (1642.12.25〜1727.3.20(ユリウス暦)、ライプニッツ Gottfried Wilhelm Leibniz 1646.7.1(グレゴリオ暦)1646.6.21(ユリウス暦)〜1716.11.14)を挙げることができます。カントが生まれる前後にこれらの巨匠は亡くなっていました。カント、フィヒテ、シェリングは、ニュートンやライプニッツの遺産を受け継いで、互いに微妙にずれた時期に活躍していたということになります。

当時の政治情勢 特に戦乱など

 この頃、教科書的記憶にあるところとしては、欧州の主要国を巻き込んだオーストリア継承戦争(1740-1748)がありました。東プロイセンも参戦しているのでカントにも影響があったかも知れません。カントの『純粋理性批判』の第1版が1781年ということなのでこの戦争はとっくに終わっていましたが、アメリカ大陸ではアメリカ合衆国の独立とかフランスではフランス革命が起こっていました。
 フィヒテは、晩年、ナポレオン戦争に巻き込まれましたが、『ドイツ国民に告ぐ』の演説は有名とされています。なお、ナポレオンの敗走は1812年、ウィーン会議は1814年9月からだったので、ナポレオンの敗走は見たけどウィーン会議は見ていないということになります。
 この3人の中ではシェリングが一番若いことになります。グラントの『シェリング以降の自然哲学』によると、シェリングは「フィヒテ的な時期」、自然哲学に関心のある時代(1801〜1806年)、『哲学入門』(1830年)としているので、若い頃はフィヒテやカントが生きている時代も重なって研究していたことになります。

日本の状況

 ちなみに、日本では江戸幕府が開かれて(1602年)から、カントの時代は徳川吉宗が将軍(1716〜1745)であり、享保の改革が行われました。老中松平定信が寛政の改革を行ったのが1787〜1793年の頃(ちょうどフランス革命の頃か?)であり、19世紀に入ると欧州列強の船が日本にも姿を現すようになり、1825年には外国船打払令が出されるなどの動きがありました。

科学史上の特筆事項

 この頃の科学がどうだったか、すぐに出るように整理しておくべきだったのですが、本日のところは、3人推し科学者を挙げることにします。
 19世紀初頭にはニュートン力学が完成の域に達していました。フランスの数学者ラプラス Pierre-Simon Laplace(1749.3.23〜1827.3.5)は、現代にも使用されている数々の輝かしい数学上の実績を残した数学者ですが、計算すればすべての事象が計算できると述べました(ラプラスの悪魔)。
 化学界ではフランスのラボアジェ Antoine-Laurent de Lavoisier (1743.8.26〜1794.5.8)が有名です。質量保存の法則、フロギストン説の否定、元素の発見(現現在元素とされているものは25種類)など、重要な仕事を次々としていたのですが、フランス革命で処刑されてしまいました。
 イギリスのファラデー  Michael Faraday (1791.9.22〜1867.8.25)は、自然哲学者として、電磁気学で大きな発見をし、後のマクスウェルから量子力学に至る重要な貢献をしたほか、現在の電池の理論で欠かすことができない電気化学について大きな貢献をしました。
 日本の学者を挙げていませんが、不勉強のせいです。
 江戸時代は鎖国をしていたものの、オランダから出島を経由して欧州の情報は入手していたと言われています。それに加えて日本独自の研究も行われていました。17世紀後半に活躍した関孝和は数学者としてニュートンやライプニッツに匹敵するような高度な数学を研究していたと言われています。ただ、日本の場合、◯◯流などとして研究成果が秘匿された例もあり、流派以外の人がどのくらい自由に使えるものだったかは分かりません。もっとも知的財産の保護としては機能していた模様です。
 

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