
松笠遙著『誰も知らない夢の果から 関係と情報の哲学の体系的記述』を読んで
松笠遙著『誰も知らない夢の果から 関係と情報の哲学の体系的記述』は、これからの時代に相応しい情報に着目した哲学書です。何が書いてあったか説明しろと言われると困るのですが(直接読んだ方が良いですね)、今後、ちょくちょく見直すとなると自分の興味で引っかかったところだけでもメモしておいた方が良いと思ったので投稿します。
情報、比較、比較尺度 貨幣
話は、プラトンのイデア論の前提が、「純粋にそれ自体だけであること」、絶対的に存在するという前提、相対性の否定から導かれているという話から始まります。しかし、第5章の「宗教と科学の未だ別れざるところ」の中で明らかにされているように、科学は関係の体系であり相対的に構築されています。
「相対性」というのは重要な課題になると思うのですが、著者はその関係性を知るためには情報を比較すると明らかになると考えました。「知る」こととは、「何らかの方法で準備された差異と同一性によって区別される複数の状態もしくは選択肢の中から(単数であれ複数であれ)選択する」ことであり、「情報」とは、その選択を発生させる事物であると定義しました。情報を検知するには感覚器を通して知ることになり、情報を比較するためには比較尺度が必要であること、比較尺度には集合合理性が求められるとしました。集合合成理性とは、
(1)多数の人間、要素によって検証、使用されることでシステム自身の循環が維持される
(2)中心化された一元的な方法、処理、手順により他の多数の要素を伝達、交換、表現変換される
というものです。このシステムは、貨幣論の循環論法と類似性があるので、比較尺度は知における貨幣のようなものであるとしました。ただし、比較できない場合もあるので、万物は比較尺度に変換できる、とまでは言えないと指摘します。なお、正しいか正しくないか、良いことか悪いことかとの判断は、関係性の中で行う必要がありこれをしないとシステムが劣化します。
独我論からの攻撃
世界が情報で出来ている、万物は計算していると思える話は、最近のデータ駆動型科学、量子コンピュータの研究の進展により鮮明になって来たように思えますので、著者が世界は情報で出来ているとして話を始めても何ら違和感はありませんでした。しかし、哲学の世界ですから、世界が情報であると主張すれば、全ての情報を疑うという独我論からの攻撃を受けることになりますが、これに対して合理的な説明をすることが困難であるといいます。
このたびは、独我論とは何だったかが気になり(結局良く知らなかったので)、問題提起に対する答えがどこに書いてあったのか分からない状況です。やはり独我論について勉強する必要があります。しかし、勉強している時間も無いので、独我論とは何かメモしておきたいと思います。独我論への反駁は、プラトンのイデア論との関係も同じなのですが、次の機会に検討することとさせていただきたいと思います。
結局、国語辞典レベルの話なのですが、次のようになります。
独我論とは認識論の話であり、真に実在するのは自我とその所産だけであり、他我やその他全てのものは自己の意識内容に過ぎないとする立場である。「実在」とは、意識から独立に客観的な存在であり、「自我」とは、知覚、思考、意思、行為などの自己同一的な主体として、他者や外界から区別して意識される自分であり、「所産」(哲学用語ではなかったみたいですが)とは、あることの結果として生み出されたものです。
応用問題 善悪の判断、自由、問いの構造、宗教と科学の領域
以上は、第2章の内容でした。いわゆる起承転結で言えば、「承」にあたるところであり、ここで、第3章以下の「転」にあたるところで第2章で定義したアイテムを使って説明するところに相当します。もう少し第2章を理解する必要があるのですが、ここでも簡単にどんな内容だったのかをメモをすることとします。
第3章では善悪の判断について述べられています。善悪の判断は必要です。それは善悪の判断を怠るとシステムが崩壊してしまう可能性があるからです。著者の目標としては、善悪が入り乱れる世界で調和させる可能性はあるか、という問題に触れ、自由の相互承認が最重要であると述べます。
第4章では、ないものを問うということについて議論が展開されていきます。ここでは、ハイデガーの問の構造についての話が述べられており、勉強になったのでメモをします。問の構造は、
(a)問われているもの
(b)問いかけられているもの
(c)問い求められているもの
の3項から成っているといいます。ハイデガーは『存在と時間』という著書が有名ですが、著者は、存在は関係であり、時間は比較尺度に相当すると述べています。
第5章では、宗教と科学の関係について議論していますが、科学は関係の体系であり宗教は関係の体系ではありません。著者は、科学にも「関係の外部」や「存在の真理」に近接する領域があることを認めており、「関係の外部」は未だ科学と宗教の別れざる場所なき場所ではないかと述べます。
自然哲学との関係で興味
「関係の外部」は、科学の成果を鳥瞰するために必要な関係であると考えており、現在、自然哲学に興味を持っているところであり、個人的に著者と同意見であるように思われます。