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私は子どもの私が望む私になりたいのだ。

研究授業後の協議会にて

 「あんな授業つまんねぇよ。」
講師の元校長が言い放った。本当は前半と後半で別の単元をする予定だったのが、
「それはできないので、どちらか一つを通年で展開する計画にしてください」
と言われ、学年で知恵を絞った学習内容だったが、授業者の先生を目の前にしての言葉であった。自分たちでも迷走していたのは自覚しているし、学習のゴールに魅力が薄かったのも認める。言い方が気に食わないのも仕方ないのは置いておいても、認めざるを得ない事実ではあった。

総合的な学習の時間について思うこと

 所謂「総合」という学習が行われるようになってから久しい。私も随分頭を悩ませながらやってきた。しかし、手応えがあった授業などないに等しい。学校によっては学年で取り組む学習内容が決まっているところもあるが、ほとんどは担任が、自分たちの担当する学年の実態によって1から考えるものという印象だ。ある意味自由度の高い授業が出来るが、自由でも、学習指導要領に基づいているか、主体的で対話的な学習内容になっているかなど越えるべきハードルはいくつもある。それを越えたとしても、検討会や企画会議で潰されてしまうことも度々ある。
自由で不自由
それが「総合」に対する私の印象である。

子どもの私はどんな「総合」をしたいのか

 現在の「総合」の学習の軌道修正が必要である。それは今後、学年で考えるとして、私個人の想いを言わせていただきたい。
 それは、「共同的で創造的な学習」を柱にすべきである、ということである。学生時代はグループワークが好きだった。また工作など何かを作り出す事も好きだった。きっと昔の私だったらそんな学習なら無我夢中でやっていただろう。研究授業のために有り合わせの知識と、ハリボテの実践でお茶を濁していたが、もう一度初心に帰るべきだ。目の前の30人の子どもたちと、31人目のかつての私が心の底から楽しめて夢中になれる学習をもう一度取り戻す。そう心に決めた週末の夜であった。

終わりに

 「あんな授業つまんねぇよ。」
その言葉に私は奮起した。見ていろ、次の授業ではキラキラした子どもたちの目を見せてやる。私の研究授業は12月なので、それまでに子どもたちと夢中になって学んでやる。
 しかし私がこんな気持になったのは、乱暴だが的確なあの言葉だった。もしかしたら、あの講師はこうなることを予想していたのかも知れない。私はお釈迦様の掌で飛び跳ねる孫悟空のような存在なのかも知れない。もしそうだとしたら、やはり元校長のあの講師、油断ならない…。


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