昭和40年代の東京下町歳時記 1月
先日日本から遊びに来ていた幼なじみと子供の頃の事を話し合い、池波正太郎著「江戸前 通の歳時記」を読んだら、また思い出した事が色々あった。思えば池波氏は父より9歳上で、母も同じ浅草生まれ。私の父は荒川生まれで、私は昭和36年に葛飾で生まれ、川向うではあるが江戸川区と言う下町で育った幼少期の私の昭和40年代の記憶から、食と暮らしの歳時記を書いてみることにする。
池波さんは幼少期に蝙蝠が飛んでいた、と書かれていたが、私の家の辺りも飛んでいたし、家の前のドブ川にはガマガエルがいた。目の前にはまだコンクリートで固められる前の中川放水路の土手があり、草が生い茂る、バッタやトンボが沢山いた。川渕には蟹が、池にはザリガニがいて、当然近所にはヤブあり空き地あり田畑あり。私たちはこの地域で遊び場には事欠かなかった最後の世代と言えるだろう。実際4歳下の妹はそのような記憶が無いと言うのだ。高度成長期の真っ只中。いろんなことが目まぐるしく変化した時代だった。
1月
もういくつ寝ると、お正月...と言う歌があるが、お正月はまさしく土手で凧をあげ、羽子板をつき、かるたやトランプで遊んだ。凧は駄菓子屋で買った奴凧や長方形のものに半紙や新聞紙で尻尾をつけて、糸を糸巻きに巻いて準備。これは父親とした記憶がある。高く上がるように糸は何巻きも買って、ほどけないように結ばないと、飛んでいってしまう。冬空は高く、凧揚げは楽しかった。竹馬やお手玉、あやとりもあった。お手玉の中には数珠玉が入っていた。私は人形遊びに全く興味がなく、男の子たちとベーゴマで遊んだ記憶もある。
初詣は柴又帝釈天。お参りをして、お団子を買って、川甚で鮎を食べたと覚えている。数年前に幼馴染たちと柴又に行った時にはまだあったのに、川甚はもう無くなってしまったそうで残念だ。
お正月には京成稲毛の駅前の大きな日本家屋に住む祖母と伯母を訪ねて、父方の親戚が集まった。5家族、17人と祖母たちで、総勢19人。居間には掘りごたつがあり、祖母はキセルで煙草を吸っていた。台所は一段低い土間にすのこを渡したもので、伯母たちが味噌田楽などを作ってくれた。和室はふすまを開けたら子供たちが走り回れる大広間になり、寒かったが楽しかった。祖母の家には五右衛門風呂があったことを覚えている。小さい頃にやけどせずに入るのが大変だった。お年玉をもらって、いとこ達と何に使うか話したりした、楽しいお正月。
お節はあまり好きではなかったが、ストーブでよくお餅を焼いて食べた。年末に米屋の御用聞きが来て、鏡餅大小、のし餅、豆餅などを頼んで、届いたのし餅は家で切って食べた。年末には近所で餅をつく家もあったと思う。
うちは商売をしていたので、事務所と家のあちこちに鏡餅があり、鏡開きをしたら、私はお汁粉よりもカビを取って小さく砕いて揚げた、かき揚げが楽しみだった。
当時の東京は寒くて、家も隙間風が吹き、私は手と足がしもやけになって、寝る頃になると痒くて痛くて泣いていた。お風呂場に塩水の桶と湯の桶を置いて、交互につけた。布団には練炭を入れたアンカ。掻巻をかけて寝ていた。暮に布団を打ち直したり、掻巻の衿を取り替え、障子や畳も新しいのですがすがしい。
外のバケツにはよく氷が厚く張っていた。そして時々朝外がしーんとしていると思って雨戸を開けると、雪で真っ白で、学校に行く前に雪遊びをしたものだ。朝の登校時に水たまりが凍っていたり、霜柱が立っていることもあった。私達は集団登校で集まって30分ぐらい歩いて小学校に通っていたが、まだ舗装されていない道路が沢山あったのだ。
家の隣には園芸農家があり、南天、葉牡丹、シクラメン等があった。家にはお飾りの他にトイレにまで生け花が飾られていた。
父は口が肥えていた祖母の影響で、旬のおいしいものが好きな人だった。おかげで私達は小さな時から専門店に家族で出掛けた。よし甚と言う割烹を父は特に贔屓にして、季節料理はそこで食べた。例えば1月はちりたら等の鍋。着物を着た中居さんが、きれいに切った野菜等の具を説明しながら順番に入れて、丁寧にアクを取っていく。出汁の量を見たり、最後には雑炊にして取り分けてくれた。襷をかけた彼女は匂い袋を袂等に忍ばせていて、動くとほのかに香るのが興味深かった。
父は時々おいしい牛肉を沢山買ってきて、牛脂、砂糖、醤油ですき焼きを作ってくれ、肉が終わったらねぎ、白菜、しらたき、焼き豆腐等を入れて食べた。今思えばうちにはしゃぶしゃぶ鍋もあり、これも父の音頭のもとに食べるご馳走だった。母親の料理とは違い、目の前で調理されていくおいしい牛肉を皆で囲んで食べる、楽しいご馳走だった。普段は肉と言えば鶏肉か豚肉。だから牛肉の日は、家に牛肉の匂いが蔓延して、幸せな夜だった。
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