冒険家の代名詞 バスコ-ダ-ガマ 徹底深堀
バスコ・ダ・ガマ(1460年頃 - 1524年)はポルトガルの探検家・航海者で、喜望峰回りのインド航路の発見者として知られています。1497年幸運王マヌエル1世の命を受け、リスボンを出航。アフリカ南岸の喜望峰を中継し、翌年インドに到達しました。
彼が海路によるアジアへの交易ルートを確立したことで、ポルトガルはアジア香辛料貿易へ直接介入することができるようになり、16世紀には「ポルトガル海上帝国」とも呼ばれる交易圏をアジアに構築したのです。なお彼は24年にインド総督に着任し、同年インドにて没しています。
そんな歴史的な冒険家として知られているバスコ-ダ-ガマ。
その栄光を支えていたのは数知れない犯罪の数々です。
バスコは一度の航海でインドへの行き方を概ね知り、当時の高級品の一つである香辛料に目を狂わした事でしょう。そんな彼は2度目の航海、3隻ほどの大砲付きの船と共にインドにつき、その港に向かって大砲を数発打ちました。そしてその場にいた港の人々を人質として、そこの王に「香辛料を渡せ、さもなくば人質を殺す」と恐喝したのです。そんな一方的な要求でも民の命がかかっているので王は飲まざるを得ません。そうしてバスコ-ダ-ガマは“インド航路開拓“という功績とその手土産に大量の香辛料を母国に持ち帰りました。(ちなみに人質は交渉が成立したにも関わらず無惨にも虐殺されました)
果たしてバスコ-ダ-ガマは“偉人“であるのか。“航海“という側面だけで見れば間違いなく“偉人“でしょう。しかし「人殺し」「武器を使用した脅し」の上に成り立っている功績は“偉人“のする功績と自分は思えません。たとえインド航路開拓を実現した人であろうとも「人殺し」が黙認されるような事はあってはならないと思います。「清濁合わせて飲む」というけれどあまりにも濁りすぎていたら飲めたもんじゃ無い。